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【劇評】 告白の閾と「死後の生」──AAPA『敷居またぎ』 (2024年、北千住BUoY)

一度起こった出来事や一度発した言葉が、その後の人生を決定付けることがある。人生の方向性を定めるような出来事や言葉は、後で振り返ればそれが一つの分岐点/敷居となって、人生を「そのこと以前と以後」といった風に分けるような効果を持っている。
メーテルリンクの戯曲『室内(interior)』(1894年)を基にしたAAPAの公演『敷居またぎ』は、複数の敷居──ダンスワークと舞台作品の時間、客席と舞台空間、裏庭と窓、俳優の役と素、生と死など──によって構成されている。舞台空間に設置された複数の敷居は、固定化されるのではなく上演中も絶えず揺らぎを含んだものとして表象されていた。

例えば公演が始まる前には、「触れる/触れられる」をテーマにしたワークの時間が設けられる。ワークは舞台空間の奥に地続きになっているカフェスペースから始まる。ワークに参加する観客は、二人一組のペアになって相手が差し出す手のひらに手を載せ、目を閉じて重心を委ねながら相手のインストラクションに従い、しばらくの間たゆたうことになる。目を開けたタイミングで、そのまま客席に運ばれていく人もいる。ワークがひと段落したところで俳優が演技的な発話をしたり、虚構性が立ち上がるタイミングはあるものの、ワークの終わりと劇の始まりの境界は明確に仕切られているわけではない。
演出/旅人役の上本竜平がワークの中で行う移動を「小さなダンス」と呼んでいたように、劇が始まる前に小さなダンスを経験した観客たちは、劇中も客席に居続けることを強制されることはなく、移動する自由を与えられている。

老人役の佐藤鈴奈は、ワークが落ち着いた直後になされる前説部分において、一見自身の過去の録画とも思えるビデオ映像が流れているテレビデオの横に座りながら、日常的なトーンで自分の将来のこと、仕事とダンス創作のバランスなどについて話し始める。その後、マリー/マルト役の新上貴美によって語られはするものの、誰のものとも確定することができない月経前の心理的状態についての匿名化されたエピソードの音声が流れながら、徐々に舞台空間におけるフィクションの濃度が高まっていき、老人の「ここが裏庭だ」という発話によって戯曲の時間に入っていく。
ワークから前説、そして戯曲へとまたがるこの地平において、ビデオ映像やエピソードの当事者性を担いうる老人役としての佐藤は重層化されており、極めてリミナルな俳優として舞台に立っている。

さまざまな敷居が現れる本作において、とりわけ物語の推進力となっていたのは老人と旅人が直面する、生死の告白をめぐる敷居/閾であった。

1.「言おうとすること」の閾

この戯曲の中心に流れているのは、ある家族の娘の遺体を発見した老人とたまたま居合わせた旅人が、娘(古茂田梨乃)の死をその家族たちにどのように伝えるのか(あるいは伝えないのか)を巡る時間である。老人と旅人は上演中のほとんどの時間裏庭から娘の家の中を眺めており、家族の様子、不幸の訪れ、出来事の宣告をめぐって会話をしている。娘の死をどのように伝えるのかを巡って進む劇は、人間が不幸──今回で言えば娘の死──を被る際の経験や、それを知らせる際の戸惑い、シリアスな出来事を言うことの重力などについての教訓めいたセリフによって構成されている。最後は老人が家の中へ入って行き家族たちに娘の死を伝え、家族たちが動揺する中で「子どもは何も知らずに寝ている」というセリフによって閉じられる。
ここで確認しておきたいのは、この戯曲においてメーテルリンクは死そのものではなく、死という出来事を告白するに当たって生じる重力や逡巡の方に力点を置いているということだ。

戯曲はやはり、娘の死とその知らせという決定的瞬間のあいだの宙づりの時間をとりあげているのである。悲劇において告知の場面が表象されることはあっても、死と告知のあいだの躊躇の時間は空白になっているのが普通である。しかしメーテルランクは、こうした時間にこそ生の深い悲劇を見ているのである。

(1)中筋朋『フランス演劇にみるボディワークの萌芽──「演技」から「表現」へ』世界思想社、2015年、94頁。

死そのものでもなく、決定的な告白の場面でもなく、死と告白のあいだに流れる揺動の時間そのものの中にメーテルリンクは生の機微を見出している。
公演のタイトル『敷居またぎ』に寄せて言えば、ここにあるのは家の窓のように境界を確定できるような「敷居」ではなく、輪郭の不鮮明な、実体化して他人に指し示すことが困難な「閾」であると言える。告白しようとする時に広がる閾は、セリフにも登場するようなさまざまなためらい──二人で言いに行く方がいいのか、悲しそうにせずにスッと言ってしまった方がいいのか──によって織り成されている。そこには「またぐ」という動詞から連想されるような明確な線を見出すことは難しく、言語化し尽くすことが不可能な、本人にも飼い馴らすことが困難な心のダイナミズムが描かれている。
演劇学/フランス文学研究者の中筋は、メーテルリンクの戯曲における人間像の特徴として「『自分たち以上に、自分たちの人生についてよく知っている人間がたくさんいる』こと、つまり自分たちにもっとも近しいものであるはずのことが、自分たちの認識から逃れてしまう恐怖」(2)を指摘している。
「皆、うわべでこそぼんやりしてるようでも心のなかでは色々と思い乱れて、我が身で我が身がわからぬのだ」という老人のセリフが言い表しているように、不幸の経験や出来事の告白には、自分でもその姿がわからないような矛盾や葛藤がつきまとっているのが通常ではないだろうか。
この公演を包摂する大きなテーマの一つに「触れる/触れられる」があったが、ここまでの流れを踏まえて『室内』における「触れる/触れられる」の表現について言うとすれば、それは身体的接触に限らず、言葉でもって他者に「触れようとする」際に自らの内面に生じる、自分でも扱いきれない相互触発や自己の中における他性として現れていたと言えるだろう。

2.死後の生

メーテルリンクは「死」そのものよりも、死とその告白の間のためらいの時間に焦点を当てていた。しかし言うまでもなく、死はこの戯曲における重要なテーマの一つでもある。また死とその告白の間の時間を強調することによって、この公演における死の姿についても一定の見通しを与えておくことが求められるように思う。さらに公演の開催に当たって行われたメーテルリンクの勉強会(3)においても、「コンタクト・インプロヴィゼーションやダンスが死をテーマとして扱うことは可能なのか?」といった問題提起もゲスト講師の横田宇雄によってなされている。 戯曲におけるモチーフとしての死や問題提起を踏まえて、ここでは『敷居またぎ』において表象されていた死とそれを巡って展開する時間について、少しだけ言葉を与えておきたい。

メーテルリンクの戯曲にとって、敷居は「正反対の極限を、同時に劇に導入するための重要な場」(4)であった。『敷居またぎ』において現れていた「正反対の極限」としては、生と死がある。しかし生と死はそもそも正反対の関係性にあるだろうか。
人間は自分の死を経験することはできない。人が生きてる中で経験するのは他人の死で、自分の死は、どこまで行っても生きている今この中において想像する死──死んだらどうなるのか──として、みずからの生に内在している。
デリダ/カント研究者の宮﨑裕助は、『ジャック・デリダ──死後の生を与える』(2020年)において、ベンヤミンの翻訳論やデリダの思想を踏まえながら、この生に内在する死を「死後の生」として扱っている。死後の生とは彼岸における死や来世などではなく、此岸における死のことである。

死後の生とは、永遠の生や魂の不死を希求するものではない。先に述べたように、それは此岸における死後の生である。しかも、此岸からはじめて生と死の区別そのものを問い質すにいたるような死後の生である。つまり、私たちの生が有限であり、いつ死ぬかわからない、いつでも死すべき齢でありうるという意味でたえず死への切迫のうちに置かれているということ、そればかりでなく、痕跡やテクストを媒介としてつねに自己自身との葛藤状態のなかで死後の生を引き受けざるをえないということ、私たちの生はそのように死すべき存在として死を内在化しているからこそ、そのつど死を乗り越えるべく生き延びるように希求するのである。

(5)宮﨑裕助『ジャック・デリダ──死後の生を与える』岩波書店、2020年、17-18頁。引用に当たって強調は削除。

人間の生は有限である。有限性における死は、ある瞬間の出来事でもありながら閾として経験される。死者に向けられた語り、記憶、創作、喪、祈りによって死者は生き延びることができる。強調しておきたいのは、死後の生は永遠を約束するためのものではないということだ。「永遠の生が叶えられるところには、生き延びも死後の生もないだろう。それはとりもなおさず死そのものであり、結局そこには生そのものもないだろう」(6)と宮﨑が書いているように、死後の生は人間が自らの有限性を引き受けようとする営みの連鎖において紡がれていく生の在り方なのである。

「災難にあう人は他人より先にそれを知りたがる。つまり他人の手にゆだねておくのを好まぬのだ」と老人が言うように、人間は自分に降りかかってくるかもしれない不幸や災難を予め知りたがる。しかし、それは人間が有限な存在として生きようとする限り原理的に不可能だろう。有限な生を生きる人間にとって、災難や不幸は訪れたその都度──多くの場合準備を欠いたまま──対峙するしかないような出来事ではないだろうか。

メーテルリンクは、人形や舞踊の身体と、人間の俳優から生成する演劇性の間で創作に取り組んでいた。魂を宿していない人形の身体だからこそ可能になる表現に可能性を見出しつつも、それは人間の条件を探求するためでもあった。人形や機械であれば簡単にこえてしまうであろう窓=敷居の前で佇む老人と旅人は人間的だった。彼らは敷居と対峙しながらも、その奥に広がる、またいだかどうかはっきりと自覚することができないような、告白という行為にどうしようもなく付随する閾に包まれてもいる。

言葉の意味が文字通りに受け取られ、言われたことの周縁に漂っている言われていないことへの想像力が欠けていく社会の中で、『敷居またぎ』における「触れる/触れられる」のテーマや人間性は、告白の重力として多層的に表現されていた。(文:長谷川祐輔)


(1) 中筋朋『フランス演劇にみるボディワークの萌芽──「演技」から「表現」へ』世界思想社、2015年、94頁。
(2)中筋、同書、98頁。
(3)【 AAPA公演『敷居またぎ』関連企画 】 公開リハーサル&メーテルリンク勉強会(オンライン講義: 横田宇雄)
(4)中筋、同書、114頁。
(5)宮﨑裕助『ジャック・デリダ──死後の生を与える』岩波書店、2020年、17-18頁。引用に当たって強調は削除。
(6)宮﨑、同書、18頁。

AAPA『からだの対話の場をひらく』 (2024年6月14日〜23日、北千住BUoY+仲町の家)


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