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2020年に読む、カミュ『ペスト』

先月、数年ぶりに『ペスト』を読み返した。たぶんこれまでに2、3回は読んでいるはずだが、内容はちっとも古びていない。それどころか、今回が一番心を揺さぶられたと思う。

理由は、わたしが今、国境を閉ざされ、外出制限令が出た環境で暮らしているからだろう。実際の世界で起きていることを、小説が先取りしているような感覚で読み終えた。

小説『ペスト』を旅する

『ペスト』の舞台は20世紀半ば、フランス統治下にあるアルジェリアのオランだ。

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Source: Central Intelligence Agency (CIA).

アルジェリアは、アフリカ大陸の北部にある。6世紀にビザンティン帝国、7世紀にアラブ人、16世紀にオスマン帝国の支配を経て、1830年からフランスの植民地になった。その後7年の戦争を経て1962年に独立を勝ち取るが、著者カミュはそれを目にすることなく世を去っている。

小説の舞台オラン (Oran) は、首都アルジェに次ぐ第二の都市。地図ではアルジェリアの北端にあり、西のモロッコ寄りの、地中海に面した港街だ。海は、『ペスト』の中でも重要な場面に出てくる。フランスでありながら海外領土で、首都のパリとは遠く離れていることも小説の背景になっている。

フランス植民地時代のオランには、一時80万人を超えるヨーロッパ系の住民が住んでいたという。動画で観ると、アラブやオスマン・トルコなどの文化遺産と、ヨーロッパ風の生活様式が融合した街の様子が伝わってくる。

Beautiful Algeria, Oran from above
By Zapping Nomade

ペストに見舞われた災厄の街

さて、そのオランの街のあちこちで、ねずみの死骸を目にするようになったのが、『ペスト』の不穏な幕開けになっている。1日に6200余の死骸が集められるに至って、オランの人びとも何かがおかしいことに気づく。

この数字は、市が眼前に見ている毎日の光景に一個の明瞭な意味を与えるものであり、これがさらに混乱を増大させた。それまでのところ、人々は少少気持の悪い出来事としてこぼしていただけであった。今や、人々は、まだその全容を明確にすることも、原因をつきとめることもできぬこの現象が、何かしら由々しいものをはらんでいることに気づいたのである 。

次に、原因不明の熱病で、人びとが命を落とし始める。信じられないような災厄が街を襲い、姿が見えない疫病との闘いが始まる。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。

早くから異変に気付いた医師リウーと、年配の医師カステルは、これが恐ろしい伝染病ペストであると見定めて、感染拡大を防ごうと県庁で保健委員会を招集させる。

抗生物質の発見前には全世界的な大流行が幾度か記録されており,特にヨーロッパでは黒死病として古くから恐れられてきた.近年の流行は,アフリカ,南米で報告がある.

「ペストとは」  国立感染症研究所

しかし、県知事と有力者リシャール医師の反応は鈍い。ペストという断定を避け、法律上の措置をとることにも及び腰だ。パニックを回避したいという心理が先に働く。このままでは市民の半数が死んでしまう、というリウーとカステルの働きかけで、ようやく知事は「若干の予防的措置」を講ずることに同意する。

このビラから、当局が事態を正視しているという証拠を引きだすことは困難であった。処置は峻厳なものではなく、世論を不安にさせまいとする欲求のために多くのものを犠牲にしたらしかった 。

リウー医師の危惧の通り、事態は悪化の一途をたどり、熱病による死亡者数は増え続ける。たまりかねたリウ―は県知事に電話をかけて「今の措置では不十分です」と告げる。そしてオランの状況を伝える報告書を作成して植民地総督府に送る。

「ペストチクタルコトヲセンゲンシ シヲヘイサセヨ」(ペスト地区たることを宣言し、市を閉鎖せよ)という公電が折り返し届いて、ペストに汚染されたオランの街はロックダウンされる。

市門の閉鎖の最も顕著な結果の一つは、事実、そんなつもりのまったくなかった人々が突如別離の状態に置かれたことであった。母親と子供たち、夫婦、恋人同士など、数日前に、ほんの一時的な別れをし合うつもりでいた人々、市の駅のホームで二言三言注意をかわしながら抱き合い、数日あるいは数週間後に再会できるものと確信し、人間的な愚かしい信頼感にひたりきって、この別離のため、ふだんの仕事から心をそらすことさえ、ほとんどなかった人々が、一挙にして救うすべもなく引離され、相見ることも、また文通することもできなくなったのである。

勇気と友愛の物語

初めて『ペスト』に出会う人の楽しみを奪いたくないので、ここから先のあらすじは書かない。

何が原因なのか、治療手段もわからないながらも、なんとか患者を救おうとする奮闘する医師リウー。その友人となり、リウーを支える旅行者のタル―。人びとの命を救う血清をつくることに尽力する医師カステル。たまたま滞在していたオランで封鎖に遭い、恋人のいるパリに戻る手段を必死に探す新聞記者ランベール。無辜の人びとの死を目の当たりにして、信仰の意味を自らに問い直す神父パヌルー。厳正な法の守護者である予審判事オトン。そして、訳あって封鎖された都市内にいることに安堵する人物……。

外界と隔絶された世界での、それぞれの人物の不安や苦悩、絶望を基底音に、困難な環境でも発揮される勇気が、抑えた筆致で描かれる。この災厄の記録者は誰なのか。後段でその秘密が明かされるまで、一気に読まされる。

『ペスト』は架空の設定で、疫病の流行と、都市を封鎖され、そこに閉じ込められた人びとの心情と生活を描いている。しかし、作品の主題は、ペストのもたらす地獄絵図の描写ではなく、不条理な病と闘う人びとの勇気と友愛にある。困難なときにこそ、ひとりひとりが何を大切に考え、どう行動するかが問われるのだと思う。

著者カミュはノーベル文学賞受賞者

『ペスト』の著者アルベール・カミュは、1913年、フランス領アルジェリア生まれ。アルジェ大学で学んだあと新聞記者になるが、その新聞が発禁になる。その後拠点をパリに移し、ジャーナリストおよび劇作家として活躍する。1942年発表の『異邦人』で注目される。1947年『ペスト』を発表。1957年には43歳の若さでノーベル文学賞を受けた。1960年、自動車事故により死去。46歳だった。

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 *本稿での引用は、カミュ『ペスト』(新潮社、1969年)による。

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