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南アフリカの光と闇を見た、ある夜の出来事

南アフリカを巡る旅の、その最後の夜のことだった。

僕はケープタウンにいて、その夜、シグナル・ヒルという夜景の名所へ行こうと思った。

小高い丘の上から、港町ケープタウンの美しい夜景を一望できるスポットだという。

ただ、ひとつ心配なのは、その治安の悪さだった。

ガイドブックには、「最近は頂上付近の治安が悪化してきたため、少人数や夜間に行くのは避けた方がいい」と書いてある。

そのシグナル・ヒルへ、僕はひとりで、それも夜に行こうとしていた。

常識的に考えれば、行くべきでないのは明らかだった。

でも、僕は旅の終わりに、ケープタウンの輝くような夜景を見たかった。その夜景を見つめることで、南アフリカの旅のラストを飾りたかった。

たぶん、ガイドブックに載るくらいだから、そこは観光スポットなのだろう。まだ夜の早い時間だし、他の観光客もいるはずだ。

タクシーで行って、夜景を静かに眺めて、またタクシーで帰ってくる。その程度なら、とくに問題ないはずだ……。

そう思った僕は、「Uber」アプリでタクシーを呼ぶと、ホテルの前から乗り込んで、シグナル・ヒルを目指した。

夜の街中を抜けたタクシーは、暗い山の中の一本道を、ひたすら登っていく。たまに対向車とすれ違うけれど、その数は決して多くない。

やがて右側に、宝石を敷き詰めたみたいに美しいケープタウンの夜景が広がってきた。

そこからさらに登ると、開けた駐車場があって、すぐにタクシーは停まった。

しかし、あまりにも暗い。そして、停まっている車がまったくない。ただの1台もないのだ。

運転手さんに料金を払った後、僕は一瞬、このタクシーにこのまま待っていてもらった方がいいかな、と思った。

ところが、運転手さんに「エンジョイ!」と言われると、反射的に、そのままタクシーを降りてしまった。

タクシーはすぐに夜の山道を走り去っていき、僕は真っ暗な駐車場に、ひとり取り残されることになった。

そのとき初めて、しまった、と思った。

ここは治安が悪いケープタウンの、夜の丘の上なのだ。周りを見渡しても、観光客なんて誰ひとりいない。こんなところで強盗にでも遭遇したら、大変な事態になってしまう。

やっぱり、あのタクシーに待っていてもらうべきだったのだ。

後悔しても遅かった。僕は気持ちを落ち着かせると、夜景をのんびり眺めるなんて計画は止めて、すぐに帰りのタクシーを呼ぶことにした。

しかしスマホを見て、身の毛がよだつような気持ちになった。

スマホの電波がほとんど届いていなかったのだ。

「Uber」アプリを開いても、電波が微弱なせいで、タクシーを呼び出すことができない。僕は絶望的な気分に包まれた。

そのとき、山道の方から、車の近づいてくる音が聞こえてきた。しかも、けたたましい音量で、音楽をかけている。

全身から一気に冷や汗が出てくるような気がした。車に乗っているのが悪い人だったら、どんな危険に見舞われるかわからない。

僕は駐車場を離れ、真っ暗な公園の方へと向かった。とにかく僕の存在に気づかれない方がいいと思ったのだ。

公園の木々の間から覗くと、駐車場に車は停まり、何人かが降りてきたようだった。そのまま彼らは、夜景の見える展望スペースへと向かっていく。

夜景を見に訪れた、ただの観光客なのかもしれない。でも、ここは南アフリカなのだ。どんな危険が潜んでいるか知れたものではない。

彼らに注意を払いつつ、再びスマホを見ると、電波の状態が少し良くなっている。

どうやら、場所を少し移動するだけで、電波の届き方が随分と変化するようなのだ。

一筋の光が差してきた気がした。

僕は真っ暗闇の公園の中で、「Uber」アプリを静かに開き、タクシーを呼び出した。

しかし、なかなかタクシーがつかまらない。たまに、ふっとつかまることはあるけれど、すぐにキャンセルされてしまう。

もっと早く気づくべきだった。街中から遠く離れたこの丘の上まで、わざわざ来ようとするタクシーがいるはずもなかったのだ。

僕は再び、絶望的な気持ちになった。

そうしている間にも、駐車場には新たな車が入ってきて、また誰かが降りてくる。何かを話す声や笑い声が聞こえてくることもある。

どんどん恐ろしい気分になってきた。

ここが治安の良い国なら、車を降りてきた誰かに声を掛けて、丘の下まで送ってもらえばいいのかもしれない。

しかし、ここは南アフリカなのだ。それはあまりにも命知らずな、危険すぎる行為だった。

僕は夜の闇の中で、根気強くタクシーを呼び続けた。どうか届いてくれ、届いてくれ、と願った。

誰かが駐車場の方から僕を見ている気がした。靴音が大きく響くと、それは車に戻る誰かの靴音だった。生きた心地がしなかった。

30分以上が過ぎ、もう無理なのかもしれない、と思った頃だった。まぐれ、といった感じで、不意にタクシーがつかまった。

今度はキャンセルされることもなく、タクシーは街中を出ると、このシグナル・ヒルへの山道を登ってくる。

助かったのかもしれない。どうかこの丘の上まで無事に来てくれ、と祈りながら、僕はスマホの画面を移動するタクシーを見つめた。

やがて、地図上のタクシーがシグナル・ヒルに着くと、駐車場にも1台のタクシーが停まった。

急いで向かうと、運転手さんが、「Uber?」と大きな声で叫んでいる。

車のナンバープレートを見て、スマホに表示された数字と一致することを確認すると、僕はタクシーに乗り込んだ。

タクシーが真っ暗な山道を下り始めると、ホッとする間もなく、運転手さんに言われてしまった。

「あんなところにひとりで行ってはだめだ。危険すぎる」

その通りだった。僕はあまりにも、すべてを甘く考えていた。

そして、自分の浅はかさを痛いくらいに実感しながら、ふっと思った。

この南アフリカの旅も、もう潮時なのかな、と。

わずか8日間の、短い旅だった。でも、この南アフリカに着いたばかりの頃は、僕はもっと強い危機意識を持っていたはずだった。

夜は出歩かない。街中でスマホやカメラを出さない。よくわからない場所へは行かない。

旅の最初の夜、ホテルから近いレストランへ行くだけでも、往復タクシーを使ったくらいだった。

それなのに、3日、4日と経つにつれて、少しずつ気持ちが緩んでいくことになった。

このくらいの夜道なら歩いても大丈夫だろう、ここの街角ならスマホを出しても平気だろう、と。

でも、それは明らかに、南アフリカという土地に慣れたが故の、慢心だった。

たとえ、この南アフリカにどれだけ親しみを抱けたとしても、危機意識だけは捨ててはいけなかったのだ。

そんなことをひとり考えていると、山道を下る左側に、眩いばかりのケープタウンの夜景が広がってきた。

あの丘の上では、恐ろしさのあまり、夜景をゆったり眺める余裕はなかった。でも、窓の向こうを流れていくその夜景は、幻想的なほどに美しかった。

この夜、僕はケープタウンという街の、その光と闇を、隣り合わせで見ることになったのかもしれなかった。

帰ろう、と思った。このまま旅をだらだら続けていたら、本当の危険に見舞われてしまうかもしれない。

たぶん、僕にとっての旅は、その土地に慣れきる前に去るからこそ、いつも無事に日本へと帰ることができるのだろう。

旅はあくまでも、特別な非日常のものなのだ。

あるいは、ケープタウンの丘の上で過ごしたその夜は、ささやかな旅の煌めきと悲しみを、静かに教えてくれたのかもしれなかった。

帰ろう、とまた思った。特別な非日常の旅が、当たり前の日常になる前に……。

旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!