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天才テスラの数奇な人生:コンプレックスとエジソンとの出会い

今回は我々パナソニックと協業しているEVメーカー・テスラ社の名前の由来となったある天才科学者についてまとめます。その名はニコラ・テスラ。
イーロン・マスクは彼に強い憧れを抱いており、自ら立ち上げた会社の名にしたそうです。また、スティーブ・ジョブズなど多くの現代を代表する事業家達も彼に憧れを持っていたと言います。

オバマ元大統領も大学での講演で、アインシュタインらと並べてニコラ・テスラを移民の中の代表的な人物として挙げています。

また、発明王エジソンの最大のライバルでした。

電気の魔術師と呼ばれた彼の発明である交流電力システムや無線技術は、この世に革命を起こし今尚技術革新の礎となっています。

しかし、その名は他の天才達と比べたらあまり知られていません。今回はこの独創的かつ魅力的な天才の生涯に触れていきたいと思います。

類稀なる記憶力とイメージ化能力

彼は1856年に今のクロアチアで産声を上げます。

母親はかなり賢く、優れた記憶力の持ち主だったようで、司祭である夫に変わって協会の仕事の大半を引き受け、聖書の一節を暗唱できるほどだったと言います。その賢さはニコラ・テスラを含めた5人の子どもにも引き継がれます。わずか5歳で最初の発明である幼稚な水車を作り上げ、そういった経験が後のナイアガラ瀑布を利用する発電の仕組みにつながります。

彼の天才的な業績の数々を支えていたのは主に2つの能力です。
1つは記憶力。幼少期から本を一度読むだけでほとんど丸暗記して、成績も抜群に優秀でした。そして10代前半で母国語のセルボ・クロアチア語に加えて何と、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語をマスターします。
また、もう1つは幻覚とも言える奇妙な力。何かの対象について考えると即座に、その対象物が目の前に出現したそうです。このイメージを具現化する力はあまりにも強すぎて、その目の前に浮かんだイメージが本物かどうか区別がつかず、他の人に尋ねなければならない程だったそうです。

これらの能力が数々の発明を生み出すのに活きました。

しかし、このような圧倒的な能力を発揮し始める以前に、それ以上の天才が彼の近くにいました。それが兄ダーネです。

偉大すぎる兄という理想とコンプレックス

彼の精神を生涯支えていたとされるのは、この兄ダーネの存在です。ニコラより7つ年上の兄は、幼少期から母から受け継いだその賢さを存分に発揮していたと言います。

ニコラ・テスラは自らの自伝でも兄のことを「生物学的に説明不可能な稀有な精神現象」と表現し、それに比べると自分のあらゆる発明が輝きを失うと述べています。
そんな兄のことを両親も深く愛し、大きな期待を寄せていました。「いつか世の中に大きな影響を与える偉大な人物になるだろう」と。


しかし、その一家の夢は叶うことはありませんでした。
兄ダーネは事故が原因でこの世を去ります。12歳という余りにも若すぎる年齢でのことでした。

「偉大すぎた」兄の突然の死は、弟ニコラにとって非常に大きな原体験となります。兄がもし生きていれば成し遂げたかもしれない数々の業績を、何としても超えなければならない。彼が兄にばかり注がれていた両親の愛情を自分に向けさせるには、それしかありませんでした。兄はいつしか彼の中で常に理想となり、この強烈なコンプレックスとも言える感情は生涯を通してニコラ・テスラのモチベーションの源泉となります。

テスラとエジソン2人の天才の「出会いと決別」

その後、成長するにつれてその非凡な才能を発揮し続けた大学時代の彼を魅了したのは「電気」です。「グラムの発電機」なるものに出会います。これは発電機とモーターという2つの機能を持っていました。
その神秘的な動きに魅力を感じますが、1つだけ納得のいかない部分がありました。それが整流子という部品で発生する大きな火花でした。これは損失になってしまうのですが、発電機から直流を取り出すためにはどうしても欠かせない部品でした。しかし、そこにどうしても納得がいかなかったテスラは、全部を交流に変える仕組みを思いつきます。
ここでは詳細な説明は省きますが、直流と異なり、交流は大電力の扱いに適しているのですが、メカニズムが複雑で、装置が小型化できないという欠点がありました。そして当時は交流の電気を扱いやすい直流にわざわざ変えるために、整流子が必要だったのです。
こうして交流モーター実現に向けて研究を重ねるのですが、中々うまくいかず、奨学金の打ち切りや父の死なども重なり、自暴自棄な日々も過ごします。

そんな時に彼に飛び込んできたのが、エジゾン社が技術供与する電話局がヨーロッパで立ち上がるというニュースでした。このエジソン社というのは、誰もが知る発明王トーマスエジソンの会社です。あのエジソンのところで働ける、そう期待した彼は後先考えず列車に飛び乗り、何とか設備の仕事に就くことができます。これが、テスラとエジソン、2人の天才の長い因縁の始まりです。

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この時エジソンは34歳、テスラは25歳。社長とただの社員でした。

当時、交流モーターが難しいと考えられていたのは、その非効率さです。単相交流電源を採用していたため、起動させるには更に始動装置が必要でした。そこで、テスラは複数の交流を使うというアイディアでした。これがテスラ最大の発明と言われる「2相交流モーター」です。ここでも詳しい説明は省きますが、これが「多相交流システム」に繋がります。


しかし、この技術はエジソンからは認められることはなく、間も無くテスラはエジソン社を去ります。

そうして自らの研究所を立ち上げ、ウェスティングハウスという心強い後ろ盾を得ることになり、直流VS交流の全面的な電気戦争へと発展していくのです。

次回はそんな2人の天才の闘いとその違い、そしてニコラ・テスラの決して恵まれていたとは言えない晩年についてまとめていきます。



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