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天才テスラの数奇な人生:実務家としての戦略的誤り

前回までのまとめ
電気分野で世の中に革命を起こすニコラ・テスラは幼少の頃からその才能を遺憾なく発揮します。その裏にあったのは、幼くして亡くなった優秀な兄の存在でした。兄が生きていたら成し遂げていたかもしれない成果を絶対に超えなければいけない、そういった思いを生涯抱えて研究に邁進します。
電気の父エジソンとの出会いそして決別。事態は世の中を大きく巻き込んだ電気戦争へと突入していきます。

実務家エジソンとの違い

直流を支持するエジソンと交流を支持するテスラ。彼らはその性格も対照的でした。
エジソンの有名な言葉「天才は99%の努力と1%のひらめきから成り立つ」に表れているように、エジソンは独自の徹底した試行錯誤で成果を生み出すタイプでした。幼い頃から独学で学んできたエジソンにとってはそれが当たり前だったのです。
一方、テスラは直感を重視していて、前回紹介したその類稀なる想像力によって、事前に頭の中で解決してしまうようなタイプでした。
テスラ自身、その違いをこう表現しています。

「エジソンが干し草の山から針を見つけようとしたら、ただちに蜂の勤勉さをもってワラを一本一本調べ始め、針を見つけるまでやめないだろう。わたしは理論と計算でその労力を90%節約できるはずだとわかっている悲しい目撃者だった」
『知られざる天才 ニコラ・テスラ』より

また、エジソンがテスラの主張する交流を認めることができなかったのは、その立場も影響したと考えられています。既にエジソン社という巨大な企業の舵を取らなければいけない彼にとって、まだ技術的に不安の残る交流はビジネス的に認められるものではありませんでした。一刻も早く白球電球を発売したい実務家として、交流技術の発展を待つ余裕がなかったのです。発明家エジソンではなく、実務家のリアリストという側面が強かったと言えます。

エジソン社を飛び出したテスラは中々チャンスに恵まれないながらも、少しずつ交流システムを世に広めていきます。それに目をつけたのが当時電気会社を経営していたジョージ・ウェスティングハウスです。ウェスティングハウスの後ろ盾もあり徐々に交流が優勢になります。

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成功と友情

そして、ナイアガラ瀑布での発電所計画での採用により、交流システムが決定的に勝利したことは誰の目にも明らかでした。

これにより山奥に発電所を作り、遠距離に送電するという現在でも使われる基本的な仕組みが完成しました。

この勝利までにも様々な困難があったのですが、特筆すべきは、資金ではなく、友情を選んだという彼の意外な一面です。

当時のアメリカではロックフェラーを始めとする強力な資本家達による大規模な企業合併が起こっていました。(この時にエジソン社も複数の電気会社と合併されます。現在のGEです。)

多分に漏れずウェスティングハウスの会社もその波に飲まれることになるのですが(GEとは別)、その際に投資家達から突きつけられた条件が、テスラとの契約破棄でした。

当然親友を裏切るような行為にウェスティングハウスは反発するのですが、その要求を呑まなければ支援を打ち切ると言われ窮地に立たされます。

そのことを知ったテスラは、素直に契約打ち切りを受け入れそれまでの支援の感謝を述べたのです。大切な資金ではなく、時代に逆行した自分を信じてくれた彼との友情に報いたのです。

とはいえやはり、この選択が後々まで尾を引くのは事実で、彼は幾度となく資金難に陥ります。しかし、この選択に対して生涯恨むことはなかったようです。

「ジョージ・ウェスティングハウスは、私見によれば、当時の状況下で、偏見や財力との戦いに勝利して、私の交流システムを採用した地球上で唯一の人間です。彼は偉大なる開拓者であり、アメリカが誇るべき真に高貴な世界的人間であり、その人間性は巨大な感謝の心に負っています」
『知られざる天才 ニコラ・テスラ』より

この時から50年後のスピーチでした。

このような友情に報いるという面もありました。孤独とよく言われますが、随所にそういった一面が見られます。

壮大すぎたビジョン

交流システムそして、彼の代表的な発明であるテスラコイル。これにより彼の名は確固たるものとなります。しかし、その後決して順風満帆とは言えない日々を過ごします。その大きなきっかけとなるのが「世界システム」というアイディアです。これは交流システムからさらに大きく飛躍した、無線による電力の送電システムと情報の伝達システム等を合わせたものです。基本的にこのアイディアを追い求め続けることとなります。

果たして、これだけの天才的な頭脳を持ち、交流システムやテスラコイルで成功を為した彼は、壮大なビジョンである世界システムでなぜうまくいかなかったのか。その後研究所が大規模な火災に襲われることや、投資話を断ってしまうことなど様々な障壁がありますが、
その理由の一つとして挙げられているのが、その誤った戦略です。その社会的・経済的インパクトと取り巻くステークホルダーの立場を踏まえ切れていませんでした。
彼は無線システムとして、情報通信とエネルギー伝送を同時に考えていました。しかし、当時の投資家からすれば、無線送電の実現は同時に当時開発を急ピッチで進めていた交流送電網を用済みにするため、大きな損失になりかねない影響力を持っていたのです。つまり、当時の世の中の情勢的には情報通信としての無線システムに投資家からのニーズがありました。そのため、同時期に別の科学者が無線電信単体を完成させつつあったこともあり、テスラへの投資が打ち切られる事態となってしまいます。その重要性に気付いた時には、時すでに遅しでした。

今でこそ、その優れた点に注目が集まりますが、この時代においては余りにもアイディアが早すぎたとも言えます。
そうして、遂に資金が底を尽いてしまいます。その後も彼の特許を侵害しているとも言えるような世の中の動きに翻弄され、苦労の絶えない不遇の日々を送ることになります。

静かな最期

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1943年1月7日の極寒の夜。
ニコラ・テスラはニューヨークのホテルの一室でこの世を去ります。それは天才ともてはやされ世の中を大きく変えた傑物とは思えないあまりにも孤独な最期でした。
終生ホテル暮らしを貫いていた彼は、晩年鳩を可愛がっていたと言います。その姿は母国クロアチアでの幼少の頃の思い出を想起させるものだったのかもしれません。

確かに当時は不遇だったかもしれませんが、彼は他の科学者たちとは異なり、常に未来を見据えていたのかもしれません。あくまでも名声ではなくひたすらにビジョンを追い求める姿は今尚多くの「実業家」を惹きつけてやみません。

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