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国際NGO職員としてアフリカで働きながら、職業的作家を目指す


0. はじめに

25歳になった私のこれからについて。これまでやってきたこととこれからやりたいことを語る、少しながめの自己紹介記事になります。

最後にnoteを更新したのは2022年4月。現職の国際協力NGOに就職し、ウガンダに赴任する頃のこと。気合い十分に「現場の様子をどんどん発信していくぞ」という意気込みを記録していたと思う。

そんな意気込みとは裏腹に、その後の私はほとんど表舞台で文章書かなかった。現場で揉まれるなかで、良くも悪くも視野が広がり、尖ったメッセージの中から零れ落ちる大切な曖昧さたちのことを思うと、うまく発信ができなくなった。エサの在処を忘れた冬眠後のクマみたいに、私は発信の仕方を思い出せなくなっていた。

しかし転機は訪れた。あるとき、思い出したかのように、ひらめくかのように、ふと思った。

「近い将来、私は職業的作家になるだろう」

そこに至った経緯をお伝えする前に、私の自己紹介として、これまでやってきた「職業:国際協力」について少しだけ語ってみたいと思う。

1. 国際協力NGO職員の私

私は2022年4月、大学を卒業すると同時に認定NPO法人テラ・ルネッサンスに就職し、ウガンダ北部に駐在することになった。(NGO職員になるまでの経緯は、以下の記事が詳しい) 

あれから、丸二年が経とうとしている。私は今何をしているんだろう。一言で言うなれば、ウガンダで最も取り残された場所で、灌漑農業を通じた地元住民の生計向上支援に取り組んでいるという説明ができる。

やれやれ、また硬い言葉が多い。と思った人のためにもう少し丁寧な説明を試みたいと思う。

まず、私がいるのはウガンダ北東部のカラモジャと呼ばれる地域で、ここはウガンダで最も貧困・飢餓が深刻な場所だと言われている。実際に、人口の半分近くが深刻な食料不足と言われ、私が赴任した2022年の春頃には、毎月100名以上が飢餓によって命を落としていた場所だ。

ウガンダ北東部 カラモジャ地域

2022年のロシアによるウクライナ侵攻以後、アフリカ地域全体を襲った食料危機。食料価格の高騰を前に食べモノを買うことができず倒れていく貧困層の人々がたくさんいた。その上にカラモジャは半乾燥地域という気候上の特性もあり、食料生産が難しい場所だった。

飢えや渇きといった人間として最低限必要な"食"が満たされない状況は、とりわけ若者たちを悪の世界に誘い込む。窃盗団などに加入した若者たちによる襲撃・略奪・殺人などの暴力が横行し、地域の治安も悪化を続けている。

このような危機のカラモジャにおいて、地域住民が自らの力で地力を育むような、そして地域の平和をつくるような支援ができないかと私たちは知恵を絞った。

カラモジャにはたくさんのポテンシャルがあった。広大な土地、肥沃な土壌、そして働く意欲のあるエネルギッシュな若者たちの存在。"水"さえあれば、地域内で食べモノを作ることができるんじゃないか。そうすれば恒常的な飢えの問題に一矢報いることができるんじゃないか。

そんな素人の考えから、雨季に降る雨を集水して畑を灌漑し、地域内で安定した食料生産を目指すという灌漑農業プロジェクトの計画が始まった。

トマトを収穫する様子

ものすごく断片的に話をするけれど、プロジェクト開始から約1年が経過した。かつて乾燥した荒野だった場所には、地域の人々の胃袋を満たす果実が実り始めている。(プロジェクトの話は、面白いネタがたくさんあるから、これからnoteで小出しにしていきます) 

1年前は食べモノを乞う側だった人が、食べモノを作って供給する側になりつつある。人間が生きるために欠かせない"食"を満たすことは、将来的な地域の平和にもつながる。地域住民が自らの手で食べモノを生産し、村の中でお腹を空かせた人々の命と暮らしを守ること。私たちは今、その大きなゴールに、少しずつ近づいている。

それは長く険しい道のりで、まだまだ長い旅の途上だと思う。それでも、私は諦めずに、村の中でやることもなく飢えと渇きに苦しむ人々が、汗を流して生計を立てられるよう、彼らの自立を後押しする。地域の平和をコツコツと作っていく

これが国際協力NGOとして、ウガンダに駐在する私の仕事の断片だ。

2. 職業的作家を目指す私

転機になったのは、2023年の年が明けた頃。ちょうどこの灌漑農業プロジェクトが始まる頃のこと。あの頃に戻りたいとはお世辞にも言えないのだけれど、私にとってはとても大切な時期だった。

ウガンダに移り住み、新規プロジェクトを主体的に進めていく立場になって、少なからず気は張っていた。見ず知らずの土地で一人、事務所を一つ構えるというミッションは、それ自体で私にとって簡単なことではなかった。そしてそこに輪をかけるように、たくさんトラブルが踊りかけてきた。

頭の硬い政府役人との交渉や建設業者によるボイコット対応など、ヘビーでマディな問題を前に、プロジェクト延期や停止を考慮しなければならないほど追い込まれた時期もあった。夜もぐっすりと眠ることができず、理由もなく涙が流れてくる日もあった。心は疲弊していたし、身体の調子もずっと良くなかった。

 そんな時、唯一の心の逃げ場が「書くこと」だった。目の前で巻き起きている援助という世界の歪みや、私が体感した絶望の断片をとにかく徹底して記録することに努めた。

日曜日という束の間の休みにはカフェに通って、不味いアイスコーヒーを片手にエッセイを書いた。それはひどい散文たちだった。それでも私にとって執筆は、心の嘆きを表現するのに最適な楽園だった。書いている時は不思議と、ネガティブな感情を身体の中からうまく逃がせているような感覚があった。

格好良く言うなれば「どれだけ外界によって心身をすり減らされても、表現の自由を奪われることはなかった」んだ。とにかくこうして私の中に、書くという習慣が構築されていった。そしてそんな日曜日の執筆を始めてからしばらく経ったある時、ひらめくかのように、思い出したかのようにこう思った。

「近い将来、私は職業的作家になるだろう」

人生というのは曖昧で、つくづく流動的なものだと感じている。頭の中に遺伝子レベルで埋め込まれた潜在意識が指令を出して、私の人生を決定しているみたいだとも思う。

思いがけない断片的な瞬間が積み上がることによって、ある時ふと暗闇から芽が出るように、潜在の中を生きていた結晶が立ち現れることがある。私にはそんな瞬間が訪れた。なぜあの瞬間だったかはわからない。でも私にとってはあの瞬間にそういうことが起こったし、それが起こるように人生がプログラムされていたような気がしてならない。

そして決断した時、私の心は乗るべき波を捕まえたかのように踊り出した。そして2023年9月、「作家になりたい」という気持ちを上司に打ち明けた。私の心を熱く抱擁してくれるかのような姿勢と言葉で、彼は私の意志を受け止めてくれた。偶然にも、それは私が25歳の誕生日を迎えた日のことだった。

3.平和の根源を探し求める

 思い返せばアフリカで仕事をしていて、ずっとどこか肩書きに守られていたように思う。(それは実際、結構難しいんだけれど) ただプロジェクトを進めていれば評価される。若いのによくやっていると褒められる。

大学学部新卒という身分でアフリカで挑戦している若者という確固たるアイデンティティが私にはあった。それは実体のある世界の話であり、居心地の良さも感じていた。

でも「私の人生はそれでいいのだろうか」という葛藤が常にあった。本当の意味で、平和な社会を作ろうと思うなら、アフリカの現場で活動しているだけでは十分じゃない

ここで経験したことを言葉にして、“あなたに”伝えなければならないと私は思った。"どこかもっと深い場所"にある平和の根源に辿り着かなければならない。この五感がリアルに体験したことを余すことなく、自らの言葉として表現しなければならない

「本当に心からワクワクすること、やってみたいことは何か?」

今の私が嘘偽りなく答えるとするならそれは、アフリカにおける職業NGO実務者と職業的作家の両方だ。そしてその両方を跨いでいるのが平和への願いであり、私はその根源を探し求めることをやめたくないんだと思う。

私はアフリカのある村の中で細長く、コツコツと地域の平和を作る活動を続けていく。それと同時に、言葉を紡いで創り出す表現を通して、平和な社会を作り出すことに貢献したい。

勇気を持って宣言することは怖いことだ。でもそれよりももっと、本当に怖いのは、心の中にある内なる願いから遠ざかっていくような人生に成り下がることなんだと思う。

『源泉に辿り着くには、流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ 』

ズビグニェフ・ヘルベルト

明確に言えるのは、これからも平和の根源にある何かを探し、問い続けること。世界の片隅における地道な平和構築を続けていくこと。そして私からみた世界を“あなたに”語り続けていくこと。

希望の畑、そして平和が始まる場所

2024年が終わるまでに、一冊の本を世に出したいと思っています。そしてそのプラクティスとして、noteの更新を再開し、しばしば記事をアップロードしていきます。期待しててください。

平和が始まる場所にて。それじゃあまた。


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