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「作品1」

最初の作品番号「1」をつける。

何かを創る人にとって、「私がつくりました」と打って出る覚悟をきめたという決意表明を意味することもある。

もちろん、それほど自分の作品を整理していくことに興味のないクリエイターもいるだろうし、のちにファンや研究家が「これがこの人の最初の作品と推察される」と整理していくこともある。

J.S.バッハはキリスト教会所属の音楽家だったから、自分がつくったという感覚は希薄でバッハ作品番号は後世のものだし、ドメニコ・スカルラッティに至っては複数の学者により4種類の作品整理番号がある。

作品に番号をつけずにそれぞれ標題をつけたり、作品は作品そのものであるという立場から、タイトル自体を敢えて「無題」とする場合もある。

でも、作家本人が意図的に番号1をつけたなら、それまでのいくつかの試作の末の「ついに自分の方向性が決まりました」というたしかな宣言であるし、新星として踏み出す第一歩となる。

ハンガリーの作曲家 バルトーク・ベラ(1881〜1945)には「作品1」は3つある。これこそは、と思った瞬間が3回あったのかもしれない。

渾身の3つ目の作品1は「ピアノのためのラプソディ」(1904)に付けられた。

F.リストやJ.ブラームスといった諸先輩作曲家が書いたラプソディ(狂詩曲)に敬意を払いつつ、本当にハンガリーらしい音楽は自分のほうだと主張するような若さと重量感。

その後の歴史遺産的な活躍を知っている後世の者からみればまだまだ荒削りな仕上がりではあるものの、バルトーク萌芽のエネルギーは、ひしひしと伝わってくる。

こちらは、同時期に書かれた編曲版:「ピアノと管弦楽のためラプソディ」

https://www.youtube.com/watch?v=rEXVr6C4MT4

その後のバルトークの音楽は、どちらかといえば難解だ。

というか、

一聴するだけで口ずさみたくなるような郷愁あふれる東欧的旋律から、フィボナッチ数列をもってして初めて分析が進むような前衛的な楽曲構造まで、時代が育んだありとあらゆる語法を縦横無尽に駆け巡るのがバルトークの音楽なのだ。

振り幅が大きすぎる。

こちらが直感と理論をもって臨んでも、バルトークはもっとその先をいくのである。

・いかにもルーマニア的な響きが楽しめる「ルーマニア民族舞曲」

https://www.youtube.com/watch?v=4EP28Pi6VjM

・対して、幾何学的多面体のような「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」

https://www.youtube.com/watch?v=HGJcsTtJ188

僕にバルトークの魅力を教えてくれた、ある人がいる。

その人の存在自体が音楽のようでもある。

あらゆる分野に精通していて、ヨーロッパ音楽だけではなく、アラブの音楽、哲学、詩、演劇、量子物理学、聖書、古神道、宇宙……

いや、まだあると思う。

どこを掘っても何か出てくる。

いろんな事物の相似形を智っていて、あらゆる角度から世界を楽しんでいるように見える。

僕は

少しでも同じ視野から世界を覗いてみたいという私淑を胸に、機会のゆるす限り某所に通っては、人類が紡いできた歴史の厚みに感銘を受け、陶然とした余韻とともに帰ってくる。

昨今のコロナ対策で、しばらくの間はお会いできていなかったが、先日ようやく再訪が叶い、久々に歴史的録音に触れることができた。

音が発せられるや、洋々たる響きのなかで途端に溺れてしまいそうになる、あの感覚が戻ってきた。

はじめて伺ったとき、何を話したか明確には覚えていない。

つたない表現で、

「音楽のジャンルを越境したい、音楽の本質をもっと知りたいし、いまの人たちにそれを少しでも伝えていくことができたら本望だ」

といった旨を伝えたような気がする。

その言わんとするところを汲み取って

「じゃあ、これは聴いたことある?」「これは?」と次々と必聴必読ものが出てきて、毎度、文字通り時間を忘れて聴き入ってしまうのだ。

そして、僕自身が「作品1」のような初心に還れるのが、その貴重な部屋で共有させていただく空間なのである。

作品1を経験した作家はつづいて作品2、3と進んでいくわけだが、続けることは、打ち出すことよりも難しい。

本人にとっては毎回が作品1のようなものである。

一方で、ともすれば生活は、作品1をつくり続ける余白を与えてくれないことがある。

今日一日を無事に過ごせたと就寝前に思えるとき、たしかにそれは安息につながるけれども、ひょっとしたら、その日ひとつも冒険せずにやり過ごしてしまったことの証明ではないだろうか、とふとした翳りが脳裏をよぎる。

何も生み出さずに、24時間がループしただけだったら、果たしてその日を生きたと言い切れるだろうか。

何ごとなく過ごせてきたはずなのに、好きなことをしているときや音楽を聴いているとき、ときたま不覚にも集中力がきれることがある。

いろいろ片付けて、ようやく得た時間を存分に楽しみたいと頭では喜んでいても、体がついてこない。

無事に、無難にと過ごしていると、どうやら知らぬ間に体力を消耗していっているらしい。

「ようやく自分の時間がとれたー」と頭で考えているとき、身体のほうは「ようやく緊張から解放されたー」といろいろの澱を放出し始めるのである。

常に自分の「作品1」に還っていないと、ときにこういう矛盾に陥ってしまう。

自身を少しずつ誤魔化しながら生きていると、ほかでもない自分の心と身体が疲れてくる。

何も起きないことを望むのは頭だけ。

心と身体は、冒険して、挑戦していくほうを望んでいる。

新しい発見や気づきが日々の栄養になるということを、心と身体が一番知っている。

なかなか常時バランスをとるには至っていないけれども、この頃は自責の念を募らせるのは辞めにした。

だんだんと自分との付き合い方がわかってきたらいいなと思うようにしながら、そのたびに襟を正す。

茶道のことばに〈中今(なかいま)〉というのがある。

今の今、ともいう。

瞬間瞬間の事象に氣をめぐらせる。

客人とともに過ごす空間、掛け軸を踊る墨跡のリズム、釜鳴の松風の音、茶筌が梨地に擦れる音、季節の陽光が茶室を抜ける気配。

茶室にいると、普段は看過してきた色々な出来事が目まぐるしく同時進行しているのがありありと感じられるようになってくる。

そして、そうしているうちに自分の本来の居場所も不思議と定まってくるのだ。

きっとこれまで多くの人が自分を思い通りにできずに悩み、しずかに立ち止まって初志を自問自答しながら、また前に向かって歩いてきたのだろう。

そのたくさんの経験知がこの〈中今〉を洗練させ、茶道の根幹に息づいている。

一期一会の場は、みんなが歩める「道」となった。

誰もが歩けなければ「道」とは言えない。

日本の古の文化人たちは、ともすれば創造することを手放してしまう自分自身のために、望めばいつでも己に立ち還れるような装置を産み出し、しっかりと受け継いできたのだ。

それほど初心は離れやすく、また尊い。

人間の弱さであり、智恵であると思う。

「作品1」をつくり続ける作家の表現意欲は、並並ならぬものがある。

でも、その表出は作家だけの特権ではないし、作家だって独占したいとは思っていないだろう。

たくさんの先人たちが音楽のなかに、造形のなかに、道のなかに、書物のなかに、生きるためのエネルギーとヒントを、今とこれからのみんなのために、いつだってオープンに敷いてくれている。

音楽や芸術の本当の効用は、そこにあると思う。


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