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声色と白だし

私淑する声楽家にお逢いする機会があった。

一見、やや神秘的だがとても気さくな雰囲気をまとったその人は、オールマイティな声の持ち主だ。

クラシック音楽の中にはたくさんのジャンルがあるが、この人はバロックはもちろん、オペラ、ドイツリート、日本歌曲、現代音楽の作曲家の新作発表など、手がけてきた仕事の幅はきわめて広い。

去年なんかは、子ども心たっぷりに「ぱぷり〜ぃか♪」と歌っていたというから、荘厳なキャリアの持ち主と仰いでいた僕は、拍子抜けして笑ってしまった。

どのジャンルにもパシッと嵌る様式を網羅しつつ、聴けばすぐにこの人の声色だとわかる。

いわば、壁にかかっている絵のサインがよく見えない距離からでも「あ、ノーマン・ロックウェルだ」と認識できるような、そういうブランド力がある。

人類が共通して行ってきた原初の営みは、いわゆる一次的欲求以外には、音を奏でること、歌うことだった。

かつて文字をもたない文化・文明はあったが、歌や音楽をもたない文化・文明はなかった、とは大学の恩師の至言だ。

それをたった一人で、人類の音楽史のほとんどを代表しそうな勢いのあるこの声楽家は、やはり稀有な存在であろう。

素朴だが、あたたかみと、奥行きと、磨きの細やかさが薫り立つ。

癖はないのに、癖になる。

白だしの味のベースは鰹節、昆布、そして塩だ(原材料に白醤油は入っていない場合もあるし、椎茸が入っていないこともある)。

水も含め、すべての素材が最上の仕事をして初めて生まれるハーモニーである。

もし、このいずれか、あるいはいずれもが力不足だと、うま味調味料みたいな助っ人を入れないと味にならない。

入れたところで、うま味調味料の味ばっかりになってしまって、鰹節や昆布のなけなしの努力もすべて虚しくなる。

本物の白だしのすごいところは、結構いろんな料理のベースにひっそりと、しかし着実に縁の下の力持ちとして存在できることである。

ある意味「白」、何もないというだけあって、何に対しても適応できる。

和食は言わずもがな、湯で割れば澄まし汁になるのは、誰もがわかるところ。

しかし、粗挽き胡椒を入れれば一気にコンソメスープに変容する。

そこにオリーブオイルとトマトケチャップ追加で、イタリア風トマトスープ。

ケチャップじゃなしに豆乳か牛乳を入れたなら、クリームシチュー味。

あるいは、さきほどのコンソメスープに胡麻油を垂らせば、一気に中華スープの雰囲気に。

醤油を入れれば醤油ラーメン味、味噌ともう少しの胡麻油追加で味噌ラーメン味、最後に牛乳を入れれば豚骨ラーメン味と、めくるめく感がすごい。

それほど触手をのばしてもなお、ちゃんと基盤を担う仕事をしている。

シンプル素材の白だしの底力、ここにあり。

多展開を可能にするベースの黄金比が、味の世界にはある。

いろんな音楽を縦横無尽に越境できる声色の基礎にもまた、普遍的な発声法が存在するのだと思う。

ピアノ弾きの僕には、横隔膜の調整も声帯の弛緩もわからないけれども、レッスン風景をみていたら、シンプルな一点に基づいているのがよくわかる。

伴奏者として同行しながら、指導のアプローチや受講者の変化をつぶさにみていると、自分もあっさり歌えるようになっていきそうな気がする。

実際に声を発すると、全くそうではないのだが。

それくらい発声法はシンプルで、そこに基づいて声楽作品を演奏すれば、あとは作品が演奏者を手伝ってくれるのだ。

ピアノでも、自分が演奏して音を紡いでいるのか、はたまた音の世界のなかに自分が迷い込んだのか、どっちともつかないような時の演奏は、自分にとって心地よく、また聴いている人の心も揺さぶられる時空間が生まれている。

あまり多くを持たず、作曲家が書き込んだ地図のとおりに歩き始めることができた時、たちまち森羅万象の世界にいざなわれる。

最初の一音が待っているその瞬間に息をあわせ、音楽が始まる。

いや、音楽はすでに流れていて、雲間から現れる太陽のように、沈黙の時間の中からその表情を我々に垣間見せに来てくれているのだろう。

即興演奏のときは尚更。

理想的なのは、こちらから演奏しに出向くのではなく、音楽が生まれ落ちるのを丁寧に摘み歩いている時である。

しかし、じたばたせず素直に歩むのは非常に難しい。

特に人前に立つ前は、あることないことのあれこれを想像しては、自分を緊張させてしまうからだ。

そういう無駄なふらつきがなく、冷静に歩みを進めることができた時は最高である。

音楽の伸縮にのって指先が歩く。上腕が連動する。

演奏時間の長い音楽作品のときは、千里の道も一歩からの覚悟を抱きつつもその旅路を楽しみ、短い音楽のときは朝露のひとしずくを愛でるように、音のあわいを聴く歓びを胸に。

自分の心身の呼吸が安定しているときには、たくさんの光景が脳裏に映るようになるが、この心身の安定と、複数の音楽様式の根底に共通する声楽家の発声法とは、もしかしたら親戚のように近い関係にあるのかもしれない。

同じ根源から発して、ピアニストは指先で、声楽家は声帯で、それぞれ音に触れる。

そのシンプルな営為をいつでもどんな場所でもできるようになるまで、どれくらい試してきたかが、プロフェッショナルとプロ志向の違いなのだろう。

この声楽家にお会いして、僕はまだプロ志向の途上にいるということだけは、はっきりわかった。

発声法と、あとはリズム。

躍動してこそ音楽だし、アートだし、人類古来の営みだ。

考えすぎてはよくない。

しかし、考えて付け加えてきた習慣のいろいろは、考えながら取り外していくしかない。

達人のもとで指南してもらうにしても、自分が瞬々刻々シンプルであるかを内省するには、やはり感じ考えながら進めていくことになる。

来る日も来る日も、童心に還る努力をしているわけである。

真っ白な可能性だけを携えてこの惑星に降り立ち、たくさんのものを吸収しながら成長する。

そしてある時、「無駄なものをたくさん集めてしまった」と手放す努力を始め、もとの白を目指して、不慣れなうちは右往左往。

ついに白い部分を掴み始めたら、その道の人、プロフェッショナル。

けれど、その人ですら只管打坐、シンプル化をひたすら続ける。


つくづく音楽家の営みとは、不思議なものである。


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