見出し画像

新卒入社した広告代理店を退職し、独立を決断した元体育会出身ベンチャー社員の話

はじめまして。
豊田 大樹と申します。

タイトルにもありますが、個人的に節目のタイミングだったので
今の状態を文字に起こしておきたいと思い書いています。

大学卒業を機に何かと人生のイベントがあるたびに文章を書くようにしていたのですが、
今回も自分の思考整理と現状報告を兼ねてアップしてみようと思います。

※3,000字程度で終わらそうとしていたら7,000字超えてました…。興味ある人だけ読んでいただけるといいかなって具合です。

自己紹介

豊田 大樹|Toyoda Taiki
1998年12月生まれ / 現25歳
大阪府豊中市出身 / 日韓ハーフ(血だけです)

【経歴】
20歳までプロサッカー選手を目指し、小学校〜大学まで週6サッカーの生活(大阪桐蔭高校→立命館大学)。大学卒業後は上京し、D2C特化のマーケティング支援をするベンチャー企業へ入社。コンサル営業として従事し、1年半でマネージャーへ昇格、新卒採用面接官も務める。約2年半、プロジェクトマネージャーとして主にナショナルクライアントの食品系商材のプロモーションを支援。2023年12月で退職。

上京して広告代理店に新卒入社したワケ

実は、広告代理店を志望して入社したわけではありません。
サッカーを通して得た、ある原体験を再現できそうな会社はどこかと考えた結果、新卒で入社することにした会社が広告代理店だったというだけです。

業界を絞らないという、当時では珍しいタイプの就活をしていました。
どれだけ自己分析をしてもやりたいことが見つからず、それであればありたい状態を実現できる会社を選ぼうとしていたためです。(TO DOではなくTO BEってやつです)
そのための就活軸をいくつか決めて、一つでも当てはまらないと分かった時点で選考を辞退していました。
手厚いと言われていた立命館のキャリア支援は受けず、知人にもらった就活本は目次を読んですぐにメルカリへ出品するほど、なぜか一般的な就活がすごく嫌で、担保としてのES提出数の目標数字やSPI本を買って安堵するような、就活生も採用担当も思考停止した"就社"活動を毛嫌いしていました。

最終的に入社を決めた会社はいわゆるWEB専業の広告代理店ですが、
業務内容としては広告の出稿/運用だけでなく、WEBマーケティング支援という方がイメージが近いかもしれません。
ただ、就活生の頃の自分は具体業務についてそこまで重視しておらず、
理念・ビジョンを第一とする経営スタンス組織末端への理念浸透度担当案件社数が少なく担当年数が比較的長い、様々な職種の人たちで構成されるチーム単位での仕事最速でマネージャーになれるチャンスのある組織体系圧倒的な人の良さという点に惹かれ入社を決意しました。

若輩者でも感じたやりがいというもの

では実際に入社してからどのような仕事をしていたのか。
話そうと思えばいくらでも細かく話せてしまうのでできるだけ端的にまとめますが、
説明時間が2秒しかないような時は「大手メーカー企業のD2C商品のプロモーションを支援していました」と言うようにしています。

プロモーションと一口に言っても、事業フェーズ、PLC、チャネルといった様々な切り口で細分化される認識ですが
僕の場合は、デジタル×ダイレクト領域におけるプロモーションでしたので、
いわゆる認知やブランディングといった広告というよりは
新規獲得(購入)を目的としたプロモーションをメインに支援させていただいていました。

その中での僕の役割は、通称PM(プロジェクトマネジメント)といわれるもので、自分を含む営業やクリエイティブディレクター、デザイナー、広告運用者で構成されたチームを目標達成のために率い、管理する役割を担っていました。

プロジェクトマネジメントとは、プロジェクトをどのように進めれば成功するのか、詳しく計画を立て、管理していくことを意味します。
具体的には「いつまでに、どの段階まで、実施するか」を明確にして、そこから逆算してプロジェクト成功までのプロセスを構築していきます。

プロジェクトマネジメントとは?|三井住友銀行


主なタスクとしては社内外で二分されます。

社内タスクとしては、プロジェクトの目標設定やプロモーションPDCAの実行管理、メンバーの相互理解促進等になります。
また、若干のリクルート文化もあったため営業マネージャー陣はヨミ会なるものもありました。
チームに専属の運用担当者はいましたがあくまでMeta、Googleなどといったメガ媒体のみで、X(Twitter)やSmartNews等の媒体は営業である自分が兼任で広告運用も行っていました。もちろん入稿やレポーティング体制の構築も行います。

一方、社外タスクは相手がクライアント(広告主)かパートナー(媒体者)かで分かれます。

クライアントに対しては、マーケティング担当者や販促担当者と毎日のように電話やメールでコミュニケーションを取り、週次や月次でプロモーション状況の報告資料を作成し定例会を実施します。
また、新規獲得の広告支援だけに留まらず、社内他部署やツールベンダーを巻き込み、ECサイト改修やLINE公式アカウント等のCRM施策の提案も随時行っていました。
自分は営業であるため、数字(主に広告費や制作費)を取りに行く動きも当然行います。
クライアントへの事業貢献ができるという大前提のもと、BIツールの導入や新規クリエイティブの制作提案をしたり、事業拡大を描くためのプロモーション戦略を立案し年単位で広告費投下の提案をしクライアント社内で広告費の捻出交渉をお願いしたりもします。
また、直接競合にはならない(クライアントは同じであるものの支援領域が異なる)他代理店と協力し、規模の大きいプロジェクトを動かすことも多々ありました。

パートナーに対しては、各媒体社の方と定期的に情報交換を行っていました。また、媒体者と協業してクライアントに施策提案をすることもあり、(大前提クライアントにメリットありきですが)媒体社の目標を一緒に追うことも時にはありました。

さまざまな企業と各方面で複数のプロジェクト(チーム)が発足し、それらを主導・管理することが求められる仕事なので、個人的には大きなやりがいを感じながら仕事させてもらっていました。

この仕事の一番好きなところは、
関係者全員が幸せな状態を実現することが構造上可能にあるという点
です。

関係者とは、クライアント(広告主)パートナー(媒体社)エンドユーザー(消費者)自社がそれに該当します。
各社、各人で目指している目標は異なりますが、方向性は同じです。

───プロを目指すやつもいれば途中で留学するやつもいる。好きだから続けるやつもいれば使命感で続けるやつもいる。
それでも皆同じ方向を向いていて、目標達成のために協力し合う。
今思えば、そんなカオスとも言える大学サッカーの世界と重ね合わせていたのかもしれません。

自分は前職に在籍中、そんな4つの立場の異なる人たちがWin-Win-Win-Winの状態を創出できたと(主観では)思える経験があります。
歴が浅いながらも、利害関係のあるビジネスの世界においてこの状態を実現することの難しさと価値の大きさを感覚的でありながら理解し、今でもこの経験を尊く感じます。

血◯なしでは語れない2年目

入社後は、身を粉にしながらとにかく目の前の仕事に全力で取り組みました。
特に1年目は、生産性や効率性といった言葉とは程遠いところで働いていました。量を質へ転化させてやると尖っていました。
また、オフィスから自宅まで歩いて帰れる距離に住んでいたため、終電という制限がありませんでした。
自宅までの徒歩30分間は「今日も120%を出しきれたのか」といった自己定型文によるリトル豊田との自問自答タイムでした。
僕は弱いので、週に1〜2日は出し切れなかったと反省する日があります。
僕は頭が弱いので、反省するような日はどうすれば出し切れるのかを考えるのではなく、出し切ったと自分を肯定できるまでは帰宅して風呂に入らず仕事を再開するようにしていました。
こんな僕でも一応、健康面を気にしていたのでエナジードリンクには極力頼らず、寝落ちする半歩手前まできたら立ち上がって脳死で水シャワーを浴び、5分だけ外を徘徊するという方法を取っていました。冬季は命の危険があったので水温は30℃設定でした。

さすがにこんな話は同期にも言えませんでしたが、それでも周囲からは働きすぎだと言われていました。
残業時間に関して、労務のお姉さんから何度もお声がけいただきました。(法への抵触ももちろんそうですが、シンプルに心配してくださっていました。)
その証拠と言いますか、2年目後半のハードさが増した時期には高頻度で血便が出るようになりました。
あまり繰り返し言いたくない熟語ではありますが、血尿ではなく血便だということをここでは強調させてください。
血便ファーストデイはさすがに焦って夜中に調べました。一般論として大腸がんの可能性が疑われるとのことだったのでかなり焦りました。一方で、
「あゝ、血便が出るほど追い込めてるやないか」と少し喜びを覚える狂気じみた時期もありました。(今は違いますのでご安心くださいませ。本当に違いますよ。)

一番怖かったのが、自分でも何故ここまでして働くのか、働くことができるのかが分かっていなかったことです。
1年目の頃から、同期や先輩から「なにを原動力に働いているの?」と同じ質問をたくさん受けました。
それに対し自分は、「なぜか分からないんですけど、頑張るための理由いらないんですよねー」と適当に返していました。
この時、周囲に対して一つだけ嘘をついているという自覚がありました。次の章に記載している事実を黙っていたからです。

そしてそれは、自分に対する嘘でもあるということに後になって気づきました。
ちょうど入社して2年が経とうとしているあの血便が出始めたまだ尻寒い春のことでした。

死生観が180度変わった経験

2021年4月1日 入社日。
僕が入社した会社は当時まだ社員数150人ほどの所謂ベンチャー企業で、新卒同期は自分を含め20人いました。
そんな中、Excelも触れない脳筋豊田を人事部が推薦いただき僭越ながら入社式の代表挨拶をさせていただくことになりました。

2021年4月1日 忌日。
この日、大阪にいる親友が自ら命を絶ちました。
新人小学校教員として入社式に出席した日の夜でした。
この日自分は慣れない挨拶で疲弊したのか、めずらしく早い時間に寝落ちしていました。
翌朝、共通の知人からの電話で目が覚めました。
携帯を見ると、前日の夜に亡くなった友人から最後の不在着信が入っていました。
頭が真っ白になり、現実と夢みたいな感覚が入り混じりひどく混乱しました。

これ以上ここで語ることはしませんが、
この経験を通して自分は、これまで長いと思っていた人生を短いと思うようになりました。
自分がキツいと感じることは、さほどキツくないのだと感じるようになりました。
そして最後の電話を取ることができなかった後悔や責任を強く感じたからか、
死にたいと思うぐらいキツい状態に自分を置くことで自分を肯定するようになりました。
肯定と表現すると意図するニュアンスと少しずれる気がするのですが、
そうでもしないと立っていられない→ベッドから出られない→ろくに生きていられないというような感じです。

ハードワークするには十分すぎるほどの理由がありました。

そして、そんなことをしても何も解決しないことを心のどこかで分かっていながらも
他に頑張る理由が分からない(弱い自分と向き合うことから逃げたい)から自分に嘘をつき続けて
とにかく目の前のタスク(仕事)に没頭していました。

周囲の人たちは、僕のことを強い人間だと言います。
違います。ソフトが弱いからハードが強いだけです。
弱さを隠すようにハードを固めることで、ようやく立っていられます。
社会の一員としてそれなりにやっていくことが可能になります。
そんな自分を周囲は強いと言います。
当然です。弱い部分を見せない努力量だけは自負できます。
これまでの人生において、隠すことで大きな波を立てずに生き抜いてきたいくつかの原体験が自分にはあるからです。

現状の自分の限界を知る

一つ飛ばして血便の章に話を戻します。
2021年4月1日からずっと、抽象的でぼんやりしているけど、重要だと確信しているある問題(この問題が何なのかは自分でも分からないが問題事として捉えている感覚)の解決にようやく動こうと思えたのが、
血便をトリガーとした2022年3月の期間になります。

今でも忘れません。

2022年3月23日(木)
クライアントとの週次定例会の直前、何も考えられなくなりました。本当になにも。
うまく言葉にできませんが、脳が機能しないという感覚です。初めてでした。
恐らく働き過ぎによる身体的疲弊と極度のストレスによるものです。病院にかからなかったので正確なことは知り得ません。
クライアントや上司に詰められて「やばい何も考えられへん」ってやつとは別次元です。
そんなことはこれまで幾度となくありましたが、こればかりは全くの別物でした。

その日の夜中、熟考の末に上司に「すみません、限界が来ました」と連絡を入れました。
ずっと考えていたことは「ここでSOSを出すことは自分に対する逃げなのか否か」でした。
結局、翌朝始業前に上司に時間をもらって状況を話し、担当案件変更という対応で着地しました。

どうやら、頑張ることの限界がきたようです。
仕事に対して楽しみを求めず、責任感や使命感、義務感といった自分の場合ネガティブな側面から湧くものだけを頼りに頑張った結果における限界です。
俗に言う"スピってる"表現になりますが、神様に強制的に止められたんだと思います。

このタイミングでようやく、一つ前の章で話した逃げるために訳もなく頑張る自分の弱さに向き合おうとしました。
就活の時ぶりにちゃんとした自己分析もやりました。
社内の役員や部長、他部署の先輩などにも時間をもらって「仕事のどこに楽しさを見出しているのか」を聞いて回りヒントを得ようとしました。上司には毎週の1on1で壁打ちをし相談に乗ってもらいました。

2つの想いから退職を決断

そのような感じで、業務以外の時間は平日も土日もとにかく自身の思考や行動の原理をめちゃめちゃ考えました。
数ヶ月かけて熟考した結果、2つの想いが残りました。
それぞれ詳細な理由はありますが、また長くなってしまうのでこちらは簡素に書きます。

①自分のブランドを0→1で立ち上げたいという想い
②もっとワクワクする人生にしたいという想い

①については、退職を決断する1ヶ月前にパッと出てきたこれまで自分でも認識していなかった素直な想いです。

②については、前述の頑張れなくなったタイミングを機にワクワクしたいと考え行動し続けていた不変的な想いです。そのため、半年間ほどさまざまな先輩方に仕事の面白さを聞き、それを自らの業務に落とし込んで実践し、心がどう反応するのか、みたいな実験をずっと行なっていました。

①は本気で目指したいものだと腹落ちしてからは、それが現職でどう達成に向かえるのかをとにかく考えました。社内の諸先輩方にご相談させていただき、明日死ぬかもしれないという価値観のもと人生を短い時間軸で捉えている自分にとっては別の環境の方が良いのではという結論に至りました。

②は自分の中でのワクワクの正体を定義しようと頭を捻りました。結果、「シビアさ」「不確実性」というキーワードで単語化することはできましたが、文脈に落とし込むに至るまでは机上では難しいと感じたためとにかく動いてから考えようという着地になりました。
これら2つのキーワードにおいては、勤務場所や雇用形態といった物理的要素を含め別の環境下に身を置く方が自分にとっては良いという結論に至りました。

二度ほど「環境」という言葉を用いましたが、環境依存という意味合いよりかは環境利用というイメージで今回の決断においても環境というものを捉えていました。

かなりざっくりになってしまいましたが、これらが退職理由みたいなやつです。
ただ、ここでは書き切れないほどの想いや葛藤はあるのでまたどこかでまとめられたらなと思います。

変人、退職届を提出

退職日は12月末。
最終出社日は有休消化の関係で11月末。
ただ、会社に退職届を出したのは9月中旬のタイミングでした。
※諸々、大人の事情で退職日まで時間が空きました。

転職活動もしていないし、今後のことすら考えていない。
だけど退職する覚悟を決めたので、退職させてくださいと上層の人たちに伝えました。
普通に変人です(笑)自分でもそう思います。
この話をすると「変人やん。」と一蹴されます。(特に関西勢)

ただ、辞めると決めた以上は次に向けてとにかく早く、より多く動きたかったんです。
そのために今の環境から逸脱して一時的にニートになり、危機感や焦燥感のど真ん中に身を置く必要があると思いました。
極端ですが、あえてそうしようと思いました。これまでの自分は割と真逆の行動をするタイプだったので自分に対する挑戦的な意味合いです。変人です。

そんな想いもひっくるめ全て会社の人にぶつけました。
上長、局長、本部長、役員、社長に想いをぶつけました。
皆さん、僕の想いを尊重してくださり、向かう方向どこかも分からない背中をただ押してくれました。
本当に心から感謝していますし、どのお言葉も震えるほど嬉しかったのを今でも覚えています。

・・・

7,000字を超過したので、このnoteは一旦ここで切らせていただきます。
今後のことについてはもう少し時間を置いてから書きたかったので、字数はただの言い訳ですが許してください(笑)

ここまで、長すぎる文章を読んでいただいたマイノリティさん、ありがとうございます。
誰かの何かに寄与すれば望外の喜びです。

現在は、次の中期的な目標を定め、そのためのキャリアを歩み出したところです。
前職とはまったく違う業界で未経験極まりないですが、初心にかえり、社会人1年目から大切にしている自分は何者でもないスピリットでまたハードにやっていこうと思います。

これからも、幸福度高く熱狂的な人生にしてやります!!

この記事が参加している募集

仕事について話そう

転職体験記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?