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【エッセイvol.1】出会いと別れと始まりの春

学校というのは不思議な場所だと思う。
必ず出会いと別れがやってくる。
そして、その別れはどこか郷愁的で、なんだか涙が出そうになる。

1年間の振り返り

去年の今ごろ、24年間生まれ育った地元を離れ、隣県の県職員になった。
配属されたのは、田舎の高等学校。
正直、不服にも程がある配属だった。

県庁で働けるからこそ転職したのに、この仕打ちはないだろうと思った。
その時感じた県外出身者には冷たいという印象は、決して忘れないだろう。
県に対する忠誠心は、ゼロを振り切ってマイナスになった。

大学卒業後、2年間は地元のテレビ局で記者をしていた。
記者の仕事にやりがいはあったものの、行政でやりたいこともあったし、何より地元を離れる必要性を感じていた。

その時、縁あって受けたのが、今いる県の公務員試験である。
試験結果も望外なもので、公務員が向いているんだと強く思った。

しかし、当たり前だが、配属の場所に試験の点数は関係ない(と思う)。
結果が良かったから、県庁に配属されるだろうと高を括っていたが、事前の面談で嫌だと言っていた学校事務になった。
しかも、場所は聞いたこともない田舎町。
配属を聞いた瞬間は、テレビ局に戻れないか本気で考えた。


ただ、振り返ってみると、この1年には意味があったのだと思う。
一番大きいのは、前職に比べて時間ができたことだ。
自分の人生を見直すゆとりができたし、このままではいけないという危機感を持つきっかけになった。

また、学校事務の仕事は思っているよりも大変だった。
最初は学校事務の仕事を舐めていたので、意外な仕事量に驚いた。
当然のことであるが、学校事務も公務員であるので、法律や規則に則って仕事をすることになる。
法律に則って仕事をする難しさ(と退屈さ)に苦戦していると、あっという間に1年は過ぎ去っていった。

仕事が思ったようにいかない歯がゆさを実感する1年だった。
しかし、振り返れば思うことはたくさんある。

時間ができなかったら、自分の人生を見直すことはなかったと思う。
学校事務を経験しなかったら、この仕事を舐めたままだったと思う。
仕事に苦戦しなかったら、自分の能力を過信し続けていたと思う。
不服な配属ではあったが、この経験は確実に役立つものだと思う。
ここでの出会いは、絶対に意味があるものだと思う。

学校の出会いと別れの特殊性

ところで、学校は出会いと別れを実感しやすい場所だ。
3月には卒業や異動で必ず別れがあり、4月には新しい出会いがある。

そして、学校という空間は、別れをドラマチックに感じさせる力がある。
今年は4人の教員が異動したが、離任のあいさつでみんな泣いていた。
私も思わずもらい泣きしてしまった。

私は基本冷めている方で、自分の卒業式ではまず泣かなかった。
しかも、異動する教員とは親しくはしていたが、事務と教員という間柄であったため、交流が決して多かったわけではない。
なのに、なぜかこみあげてくるものがあったのだ。

私なりに気づいたことがある。
学校は、みんなが成長する場所なのだ。
生徒だけでなく、教員も、私たち事務職員も同様に。
つくづく、学校は不思議な特殊な場所だと思う。

この春は、なんだか辛い別れがあった。
そして、新しい出会いがある。
きっとまた、何かが変わっていくのだろう。
ここを離れるときに泣けるくらい、もっと真剣に仕事をしようと思った。

始まりの春

社会人になってからはもう4年目になってしまう。
転職したので何となく実感はないが、若手から中堅になり始める時期だ。
仕事の責任も増す一方で、大体のことはできるようになってくるだろう。

ただ、特にここ数年は現状維持に恐怖を感じることが増えた。
若さと経験はトレードオフだとは思うが、若さを失うのが怖い。
年を重ねるだけではいけないと思い続けている。
そんなことを考えているうちに、あっという間に時が過ぎ去っていく。

始まりの春。
私自身、今年は大学院という新たな挑戦が始まる。
勉強と研究に集中するため、職場の近くに引っ越した。
(院は基本的にオンライン中心の予定。)

桜はすぐに満開になり、もう散りかけている。
今年の春は、すぐに通り過ぎて行ってしまう。
取り残されないように、精一杯生きていきたい。

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