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『Weの市民革命』は起こせないけれど|2020年の振り返り

『Weの市民革命』とは、アメリカ在住の文筆家・佐久間裕美子さんの新刊。今のコロナ禍に若者が中心となって巻き起こそうとする変革の流れを記す本書からは、いかに自分が社会に無関心かを思い知らされます。たとえ革命は起こせずとも、この1年を振り返れば、一人ひとりの行動変化がもう少し暮らしやすい世界を作るように思うのです。

マスクに表れる文化の違い

 2020年3月、新型コロナウィルスの感染拡大が認められるとすぐに、日本中の薬局やスーパーマーケットからマスクが消えた。それまで普段使っていた不織布マスクがまさか日本製だと思っていたわけではないけれど、実際に中国からの輸入が滞ると、その依存度の大きさを身に染みて感じることになった。日頃はマスクを使う習慣のない欧米人が、WHOや自国の指針に振り回されつつも一斉に買い求めたわけだから、どうしたって中国国内における生産は追いつかなくなる。商魂たくましい中国の人々はどんどんと生産量を増やしたけれど、それらが再び日本に入ってきたのは5月になってからだ。

 経済学者・小幡績氏の著書『アフターバブル: 近代資本主義は延命できるか』によれば、この間、日本以外の国々では少しづつマスクが行き渡り、平時の10倍程度の価格で売られてたという。今の資本主義経済において、需要と供給のバランスが販売価格を決めることは原理原則であって、これが根付く欧米では当然のこととして扱われる。ところが日本では、もしも10倍の価格で販売すればその企業に批判が集まることは容易に想像できて、誰しもそのリスクを負ってまでビジネスを続けたいとは思わなかったのだ。横並びを美徳とする日本文化は、富裕層だけがマスクを手にすることも、人の弱みに付け込むかのように儲けることも由としない。結果として高齢者が感染リスクも顧みず、僅かな在庫に列をなして群がる光景が散見された。

 しかし、そもそも何故、欧米人はマスクを好まないのだろうか。日照時間の短い国で生まれ育った彼ら/彼女らは比較的に瞳の色が薄く、太陽の眩しさを感じやすい。それを和らげるために、濃い色のサングラスで目を覆うことが多い。さらにマスクを着用すれば、鼻も口も隠れて本人の特定が難しくなるのだから、セキュリティの観点からも抵抗があるだろう。私たちは顔の見えない他人に対して、強い警戒心を抱く。サングラスを主にファッションとして扱う日本人との文化の違いが、感染症予防の態度に現れたのだ。

 他にも、マスクの機能を要因とする考え方の違いもある。一般に市販されているマスクは着用者自身の感染よりも、他人への飛沫感染を防ぐことに主眼が置かれている。個の尊重から、感染リスクを自身で判断し管理することを望む西洋人は、そんなマスクを、無理をしてまで着けることに意味を見い出しにくい。和を重んじ、同調圧力の中で自然と装着する日本人とは文化が違う。もちろん、実際にはアメリカでもマスクを拒否する人に対して暴動が起こるなど、一概に区分できるものではないけれど、大まかな傾向としては差異が認められるだろう。

COVID-19を巡る各国の対応

 その国の文化に応じて施策が違うことは当然だ。例えばスウェーデンは周囲のヨーロッパ各国が都市のロックダウンを決める中、学校なども休みにせず、対策を国民一人ひとりに委ねる形をとった。政府に対する信頼が厚い同国だからこそ、都市閉鎖は容易だっただろうに、早期に集団免疫を得ようとする施策は結果として失敗だったと言わざるを得ない。12月中旬にはストックホルムの集中治療室が満床に近づき、近隣諸国に支援を求める可能性が高いと報じられている。それでもなお公共の場でのマスク使用率が低いのがスウェーデンだったりもする。

 一方で早期にその施策の成功が讃えられたのが台湾だろう。早々に政府が全てのマスクを買い取り、公平に販売するITシステムを作り上げたことから日本において一躍ヒーローとなった唐鳳(Audrey Tang)IT担当大臣だけでなく、毎日のように会見を続けることで透明性を確保した陳時中(Chen Shizhong)保健大臣らが先頭に立って感染症を封じ込めた。これまでの死者はたった7名。それでも未だマスクの着用を法律で義務づけ、海外からの渡航者にはPCR検査の実施と隔離を徹底している。

 幸福度という視点をスウェーデンに、文化の継承を台湾に学んできた日本はというと、今再び広がる感染を目の当たりに「Go To トラベル」キャンペーンの一時中断を決めた裏側で、菅義偉首相自らが8人以上の集まる会食に参加したと批判を受けている。首相のこの無責任な行動が、もしかすると「自分だけは大丈夫」、「誰かが何とかしてくれる」という多くの国民の心の声を代弁しているのかも知れない。幸運にも手洗いうがいの習慣が築き上げた感染拡大を妨げる砦は、一部の利権と思いつきによって決定されたとしか考えられない奇策の数々によって、いとも簡単に壊されようとしている。

 30万人を超える死者を出し、大統領選挙をめぐっても大混乱を巻き起こしているアメリカですら、得意なビジネス領域においては底力を発揮し、いち早くワクチンを市場に流通させ始めた。結局、日本はそれに便乗して、付いていくしかないのだろうか。つながる世界に現れたCOVID-19という共通の敵を目の前に、やはり簡単には一枚岩にはなれない各国がある。

環境問題との関わり

 マスク無しでは外を出歩くことのできなくなった現状に、『風の谷のナウシカ』の腐海を想起する人も多い。1984年に映画として公開された本作品において、世界のほとんどは人の住めない腐海に覆われている。わずかに残された町に汚染を広げる植物の胞子を持ち込まんと必死に焼き払う住民の姿は、水際対策を進める今の私たちと重なる。一方で、腐海が実は人工的な浄化装置だった、というのがこの物語の本質である。腐海の裏側には未来の人が住むべき清らかな空間が広がっていた。

 新型コロナウィルスによって人々の移動が減った世界では、CO2の排出量も減り、大気汚染が改善されたと言われている。例えばインド北部において、数十年ぶりにヒマラヤ山脈が臨めたことが大きなニュースとして取り上げられた。各国の足並みが揃わず、いつまで経っても解決の糸口が見つからない環境問題に対して、ウィルスが浄化装置として機能したとすれば、それは皮肉にもナウシカの世界観と一致してしまうのだ。文筆家・佐久間裕美子氏は著書『Weの市民革命』において、これを「産業革命以来初めての、束の間の休息」と言い当てる。同時に、国際エネルギー機関の「CO2排出削減効果は8%程度」という発表を引いて、この環境対策はあまりに非効率だと指摘する。

 ウィルスの蔓延する物理世界での活動を制限された私たちは、必然的にインターネットの中の仮想世界へと生活の場を移した。航空機や自動車といったモビリティによる温室効果ガスの排出は減ったけれど、仮想世界を形作るデータセンターを中心とした情報機器が消費する電力量は増えるに違いない。このシフトが始まる以前から、ICT業界が使用する電力量は2025年に世界全体の20%を占めると言われてきた。CO2の排出量にして約5.5%。データセンターだけをとっても約3.2%という高い割合は、最近の調査によって電力効率の改善効果が加味されていないと覆されたけれど、今さら表向きの経済活動を減らしたとしても地球環境に与える影響が軽微であることには変わりない。

 ナウシカは浄化された理想郷を捨て、汚れとともに生きることを人間らしさとして受け入れた。日本は30年以上も前からこの奥深いストーリーと向き合ってきたはずなのに、主体的な解決を怠ってきた。新型コロナウィルスに対しても、当初は世界の手本となるはずだったにもかかわらず、結局アメリカやイギリスと同じように、日々、新規感染者数を増やしてしまっている。

強調される格差

 日本政府が感染拡大防止を最優先として都市を閉鎖できない理由はもちろん、経済の崩壊を恐れてのことだ。小規模な飲食店や小売店にとって、たとえ数日間であっても閉店を強いられることは死活問題である。ウィルスによって殺されるのか、営業自粛要請によって殺されるのか。国内でも特に感染拡大の目立つ大阪では、市内飲食店の廃業店数が4月から11月の間だけで3,500店に上ったことが報じられた。しかし3月末時点で59,000店舗もあった全体数からすれば8%程度に過ぎず、またこの数は例年の3割増しでしかない。労働生産性の低い企業の退場、すなわち企業の新陳代謝を促す政府は、本来助けるべき企業の見極めに頭を悩ませるわけで、「Go To Eat」キャンペーンと称した間接的支援に止めているのは、その判断を消費者に委ねるためだろう。

 一方で一部の大企業は豊富な資金力を活かして、早々にリモートワークに切り替えることで事業継続を図っている。例えばYahoo Japan(ヤフー株式会社)は、それまで進めていた在宅勤務の制度を広げる形で、出社しなくとも働くことのできる環境を整えた。これによって、多くの社員やその家族が安心して働くことができる。しかし、必然的にオフィス周辺の飲食店や小売店に赴く機会は減る。事業の規模や形態に違いがあるとはいえ、これだけの急激な環境変化に各企業が個別に対応しろというのはあまりにアンフェアなのではないだろうか。

 特に最も負担を強いられているのが医療機関や医療従事者であって、彼ら/彼女らに対する金銭的支援は誰もが反対の余地もないだろうに、何故だか一向に進んでいない。看護師を中心とする広義のエッセンシャルワーカーの処遇が思わしくないのは、その仕事が家庭内の女性の役割から派生したものだからと説いた、人類学者デヴィッド・グレーバー(David Graeber)の著書『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』は日本でもベストセラーになった。結局のところ、差別や格差が世界中に巣食っていることを改めて示してくれたのが新型コロナウィルスなのだ。

 だからアメリカで5月にBlack Lives Matter(BLM)運動が再燃したのも当然だろう。ミネアポリスの白人警官がアフリカ系の住民を殺害したことをきっかけに、相変わらず公平に扱われない人々の怒りは再び頂点に達したのだ。CNNが新型コロナウィルスに感染し、入院するアフリカ系人種の割合は白人に比べて4倍も高いと報道している通り、エッセンシャルワーカーとして働くことも多い彼ら/彼女らは圧倒的に感染リスクの高い生活を強いられているのだ。ロンドンでも、人種的マイノリティに属する駅員がフェイスカバーなどを与えられず、ウィルス感染者から唾を吐きかけられて感染死するという惨事が起きている。

露わになる搾取

 その流れは日本にも広がって、Nikeが11月に公開したCMが波紋を起こした。『動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike』と名付けられた動画には、日本において、マイノリティのアスリートたちがいかに差別を受けてきたのかが、実話に基づいて語られている。海外の白人主義には眉をひそめつつも、いざ自分たちが差別をしていると言われると否定的になるのが日本人で、外資企業によるでっち上げだと批判する声も多かった。残念ながら、このこと自体がいかに日本社会が差別を内包しているかを表している。

 一方でNikeは、本国アメリカにて、人権を重んじるための「ウイグル強制労働防止法案」の反対に動いているとも言われている。同法案は、中国政府が新疆ウイグル自治区の住民をイスラム教弾圧のために収監し、衣料品・食料品工場で強制労働させているという調査結果を受け、それを防ぐために、該当する中国企業からの輸入を禁止するというものだ。Nikeは自社のサプライチェーンの中にこの種の工場が組み込まれていることを否定していない。表向きは人権尊重を啓蒙するCMを流しつつも、実際にはこのような生産を続ける裏腹な態度に社会は呆れ、一部には不買運動が広がっている。

 これまで私たちは、まさかNikeのスニーカーがそのようなプロセスで作られているだなんて、考えもしなかった。3月にマスクの輸入が止まって、中国のものづくりへの依存度を再認識させられたけれど、その裏側には未だ人権問題が横たわる。これは中国に限らず、インドやバングラディッシュなども同様だ。スウェットショップ(Sweatshop)と呼ばれる工場にて、貧困層が劣悪な労働環境で搾取されている。

 これを知って、自分に何ができるのだろうか。少なとも人件費の安い国で作られたものには疑いをもち、できれば生産プロセスが明らかになっているものを手にしたい。最近の世界的なクラフトワークの再評価によって、古くからの職人の技術を今に伝える企業も増えてきた。例えば日本国内でいえば、山形県の奥山メリアスが立ち上げたニットブランド「BATONER」のように、原材料から製品に至るまでの徹底した工程管理によって、高い品質を作り込む企業がある。それは決して安価にはならないけれど、正しいプロセスによって作られた製品が適正な価格で取引されることが今の社会には必要だろう。作り手に対する確かな評価が格差解消の一歩となる。

ものを愛でる豊かさ

 高価でも高品質なものを必要な量だけ手にする豊かさは、外出機会の減った今の状況に丁度よかったりもする。器を洗ったり、靴を磨いたり。しっかりと手入れをする時間は頭が空っぽになって、何となく瞑想に近い効果が得られるから不思議なものだ。気分転換が進む。そうすれば無駄な買い物だって減るはずで、捨てるものの少ない生活は環境問題の改善にも寄与する。もちろんすぐに全てを変えることはできないのだから、身近なことから一つずつ。自分が納得できる生活を大切にしていきたいと思うのだ。その連なりが暮らしやすい世界を作るだろう。


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