見出し画像

森鴎外の最高傑作と「失敗」(※文学ってなんだ 17)

森鴎外の『牛鍋』は、おそらく400字詰め原稿用紙で10~20枚程度の、超短編小説である。

明治43年、48歳の時の作品であり、そしておそらく、「文豪」森鴎外の、最高傑作である。

さりながら、他の多くの凡庸なる作家たち同様、『牛鍋』にもまた、多くの「はなはだ残念な失敗」が、おかされてしまっている。

それゆえに、森鴎外は「文豪」どまりで、「大文豪」までにはなれなかったのだろうと思っている。

――いったい何が、失敗なのか?

「説明」してしまっていることである。

例えば、男の年齢を、女の年齢を、子どもの年齢を「言ってしまっている」点を取りあげてみても、失敗である。――それだけで、男の服装、女の服装、子どもの髪形を「描いた」、あの素晴らしい描写文によって暗示される「背景」の魅力が、半減されてしまっている。

例えば、女の目を「永遠に渇している目」と「説明」してしまったのも、失敗である。――それだけで、男の「鋭く切れた二皮目」と、子どもの「今二つの目」が、読者をいざなうべき「想像」も、みちびくべき「推測」も、すでに「明かされて」しまっている。

例えば、「死んだ友達の一人娘…」と、子どもについて「説明」してしまったこと、――ああ、これはもう完全な、完全な、完全な「大失敗」である。「死んだ友達の一人娘」かどうかをこそ、「読者が読み取り、感じ取る」のが、『牛鍋』の最大の魅力であり、喜びであったはずなのに…。

それでも、『牛鍋』は、近現代の日本文学において、読む価値のある数少ない文学作品である。

『牛鍋』は、とある男と、とある女と、その女の一人娘との三人で、「すき焼き」を食べている場面をば、描写した物語である。

たったそれだけの、おおよそ「物語」とも言えない、ただの「一場面」を切り取ったばかりの、ショートストーリーである。

さりながら、その書き出しの文章だけで、「分かる人には分かる」。

―― 鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉の紅(くれない)は男のすばしこい箸で反(かえ)される。白くなった方が上になる。――

たったこれだけの文章を取ってみても、これこそ近代日本文学の遺産の中でも、ひときわ異彩を放つような「傑作」であることが、「分かる人には分かる」のである。


この私なんかにも、「よく分かる」、「大変分かる」、「分かり過ぎるほど分かる」。

「よく分かる」がそれゆえに、鍋がぐつぐつ煮え、牛肉の紅が男のすばしこい箸で反される時の、「言いようのない緊張感」が、ものの見事に醸し出され、描き出され、ひしひしと迫って来て…ぎゅっと胸をつかまれるような、そんな思いまで抱かされてしまう。

「分かる過ぎるほど分かる」がそれゆえに、たとえば『城の崎にて』なんぞが、ちゃんちゃらおかしいチセツな日記文学であり、ヨーチな私小説でしかありえなかったことが、『牛鍋』の横に置いて突き比べてみると、余計にハッキリ認識できてしまう。

がしかし、『牛鍋』もまた、『城の崎にて』のような失敗をおかしている。
作者の思想をば、そのエンディングに書いたこと、である。

『城の崎にて』は、そんな思想もヨーチだが、『牛鍋』の方はオトナである分、まだ読み易い。がしかし、やっぱり、やっぱり、あんな思想というか、随想というか、作者の「おしゃべり」なんか、一文たりとも書くべきではなかった。

以下、上述のような、私の主張する「失敗」を取り払って、添削し、推敲してみた、『牛鍋』の「リバイバルもの」である。

「どこをどう推敲」し、「どこをどう削った」のか、興味があれば、「原文」と突き比べてみていただきたい。


鍋はぐつぐつ煮える。
牛肉の紅(くれない)は男のすばしこい箸で反(かえ)される。白くなった方が上になる。
斜に薄く切られた白い野菜は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。
箸のすばしこい男は、濃い黒髪をしている。晴着らしい印半纏(しるしばんてん)を着ている。傍(そば)に折鞄(おりかばん)が置いてある。
酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。
酒を注いで遣(や)る女がある。
男の髪のように深い黒を肩から胸にかけて流している。黒繻子(くろじゅす)の半衿(はんえり)の掛かった、縞(しま)の綿入に、余所行(よそゆき)の前掛をしている。
女の目は断えず男の顔に注がれている。その髪のように、深い深い黒を渇わかしている。
その目のように口も渇いている。酒は女の口を潤すことがない。
箸のすばしこい男は、二三度反した肉の一切れを口に入れた。
丈夫な白い歯でせわしなく噬(か)んだ。
真っ黒な目は、薄い皮膚の下で動きつづけるとがった顎に注がれる。
しかしこの顎に注がれるのは、ふたつの黒い目ばかりではない。目が今二つある。
今二つの目は小さい。無理に上げたようなお煙草盆(たばこぼん)に、ささやかな花簪(はなかんざし)を挿しているその下で、渇いている。
さっきから、白い手拭(てぬぐい)を畳んで膝の上に置いて、割箸を割って、手に持って待っている。
男が肉を三切四切食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。
「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」
娘はおとなしく箸を持った手を引っ込めた。
大きな黒い目には、娘の箸の空(むな)しく進んで、空しく退いたのを見る程の余裕がない。
暫(しばら)くすると、男の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。それはさっき娘の箸の挟もうとした肉であった。…


この辺で、とどめておこう。

私はその昔、この「リバイバル小説」に、「会話」をくっつけてみて、ものの見事に失敗したという経験を持っている。

「会話」によって、「鍋はぐつぐつ煮える…」という「緊張感」をば、ほんのすこしばかり、緩和させてみようと考えたのである。

そうやって、ヨーチな、ツキナミな、センチメンタルな「会話」を挿入したことによって、「緊張」は台無しとなり、小説自体の持つ「品格」まで崩壊してしまった。

それゆえに、爾来、「会話という会話」を、目の敵にしている。

それでも、絶対に「会話」がイケナイとまで思いきれないところが、私の悪しき性癖というか、「まだまだな所」と言っていいのかもしれない。

もしも、

『牛鍋』の持つ「緊張」に、ふっと穴をあけたい、という人がいたら、――それも「会話」でそうしたい、と思う人がいたら、――個人的な「失敗談」から言えることとは、森鴎外のように「会話とも言えないような最小限の会話」に、(意地でも)抑えることです。

たとえば、

「食いねぇ。もうよく煮えたころだ」

――せいぜい、そんな「ひと言」くらいに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?