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自分で食べて、自分で味わえ


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ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
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とても単純な、あまりに単純な筆遣いをもって、これまでなんどとなく確言して来たことと同様の事柄を、ここにふたたびもってはっきりと書き記しておくものである。

すなわち、

死人を復活させ得る力を持った神にせよ、罪を赦し得る権限を有した神にせよ、いったい「神」なる存在とは、自分の足をもって探しまわり、自分の目をもって仰ぎ見るものである。

その者の背に、いかな長日月に及ぶ歴史伝統慣習を背景にした宗教哲学の、現代的成功発展繁栄の(あるいは苦難患難困難の)継続があろうとも、誰かが「ここに居る」とか、「あそこで見た」などいうような事柄を、口にできるものではない。

人は、あくまでもどこまでも、己の身と心と霊とをもって尋ね求め、あくまでもどこまでも、己の身と心と霊とをもって神とあいまみえなかったならば、いかな歴史伝統慣習に支えられた宗教活動の一翼を担おうとも、永久に、その身をもって神を知ることも、神から知られることもなく終わってしまう。

そして、もしも神を知り、神からも知られることを得ずにしまえば、たかが路傍の虫けらのごときその者の、心ならずも犯してしまった罪であっても、その内のただの一つでさえ、けっして赦されるということがない。

よって、罪は永遠に、残り続けるのである。



たとえば、このわたしは、かつてのモーセのように自分の人生という荒野をさまよい歩き、モーセがネボ山に登ったようにわたしの神イエス・キリストの憐れみの山に登頂した。

その頂にあって――ここがもっとも重要な一点である――モーセにおいても体験できなかったような、実体験を得たのである。

すなわち、イエスがわたしだけに見せる微笑を目にし、キリストの父なる神がわたしだけに見せる慈しみの顔をふり仰ぎ、しかりしこうして、わたしもまたイエスと、キリストの父なる神とにしか見せない、わたし自身の涙顔を見せたみた。

それが、わたしのための、ただわたしのためだけになされた、イエス・キリストの名前の宣言であって、その名によって、わたしはわたし自身と、わたしの真の家族と、わたしの愛する同胞のための、執り成しの祈りを捧げるに至った。

そんな様子を描き切った、わたしの『わたしは主である』という文章とは、モーセが書きおろしたとされる『申命記』の締めくくりの文章なんぞよりも、はるかに美しく、はるかに神の目において是とされ、多とされ、尊ばれ、愛されたのである。


これと同様に、

ユダヤ民族の始祖なるアブラハムと、その甥ロトとは、裁きの町ソドムとゴモラから目を背け、おのおの遁走した先の地にあって、後代まで残り続けるような、まことにまことに愚かな大罪を犯した。

がしかし、このわたしは、自分の人生におけるソドムとゴモラから、けっして背を向けることも、踵を返して逃げおおせることもなく、草も木もことごとく滅ぼし尽くされた裁きの地へとまい戻り、焦土をめぐり歩き、絶望と死の灰燼の底を、己の手をもって掘り起こした。そのようにして、わたしの神イエス・キリストと邂逅した。

どんなに愚かな罪にまみれた人生の、そのために仮借なく滅ぼし尽くされた”生”のなれ果てにあっても、わたしはアブラハムのような偉大なる傑物の後を追い、愚かにして業深き罪をば積み重ねることなく、自らの人生の裁きの瓦礫を自らの心をもって掘り起こしたことにより、わたしの神イエス・キリストの「言葉」を恵まれ、それを食み、それによって生きながらえた――いや、復活させられた。

その顛末を自らの筆をもって揮亳した『ソドムとゴモラ』とは、わたしのために、ただわたしのためになされた罪の赦しの言葉であり、それと同時に与えられた、新しい、そして永遠の時代へと続く、復活の物語なのである。


たとえばこのようにして、

わたしは、アブラハムなんぞいう偉大なる名前に惑わされることなく、むしろ御仁の愚かすぎるふるまいを是とも多ともしなかったからこそ、その系図的遺伝的民族的子孫の興した宗教なんぞから、たぶらかされることもなかった。

たとえばそのようにして、

わたしは、モーセの慣習なんぞに騙されることも、かどわかされることも、篭絡されることもなく、自らの足で歩き、自らの手をもって、自らの人生の中を探し続けた――ただそれゆえに、わたしは自らの目をもって、自らの神を仰ぎ見て、自らの神の名を告げ知らされて、自らの身と心と霊とをもってその名を愛し、また愛されることを得たのである。

わたしは、わたし以外のいかなる偉人傑人聖人の類のうそぶく、「神はここに居る」とか、「あそこで出会える」とか――あるいは、「これが罪の赦しだ」とか、「これがイエス・キリストの道だ」とかいう宗教のいっさいを、信じたことがない。信じたことも、愛したことも、愛されたこともない。

だからわたし自身、「神はここに居る」とか、「あそこで出会える」とか、いわんや「これが罪の赦しだ」とか、「これがイエス・キリストの道だ」とかいう宗教をば、誰に向かってけしかけることもない。

さりながら、

いや、

だからこそ、

わたしの神キリスト・イエスから言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

罪の赦しにせよ、永遠の命にせよ、信仰にせよ、希望にせよ、愛にせよ、なんにせよ、

それらは、誰かが誰かに向かって与えられるようなシロモノでは、けっしてない。

アブラハムであれ、モーセであれ、誰であれ、そんな者はしょせん、人である。

人はどこまでいっても、ひっきょう、人たるにすぎずして、さればこそ、人は人であって、神ではない。

人が人である限りは、そこにいかなる歴史伝統慣習があって、いかな偉人傑人聖人らの美名令名英名が連なって、成功発展繁栄の(あるいは苦難患難困難の)持続継続がなされていようも、たかが人によっては、たかが虫けら一匹の罪をも赦すことあたわない。

それが、人の分なのである。

そして人は、けっして、神ではない。

だから、

だからこそ、

自分で食べて、自分で味わえ。

もしも罪を赦されたくば、自らの足で、自らの人生を歩き回れ。

自分の目と耳と心をもって、自分の神を仰ぎ見ろ。

たったひとつの己が身をもって、たったひとりの”わたしの神”とまぐわえ。

そこには誰もいない――ただお前と、お前の神のほかには…。


もしも、

もしもわたしの言うことが分からなければ、わたしやお前よりもはるかに偉大なる者の、偉大なる慣習を後ろ盾にした、偉大なる宗教の叫びあげる声、すなわち、「これが罪の赦しだ」という言葉の指し示す方角へ向かって、歩いてゆくがいい。

自分で選び、自分で決めろ。

二つに分かれた道を前にして、人はどちらへ進むことも許されているのだから。

それゆえに、

ただそれゆえに――

自分で食べて、自分で味わえ。



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