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伊勢物語風 北海道紀行

 伊勢物語風 北海道紀行

 昔、女ありけり。いまめかしき世に飽きぬれば、京にはあらじ、北の方に大きなる山、清き水求めにとて行きけり。洞に翁住むてふ淡海の、傍なる山に入りけるに、鹿三つ四つばかりありて、しばし立ち止まりて女を見たりけれど、やがて森の中へ往にけり。鹿ども高く鳴きて、あたりに響きたるが、うるはしく、水となりて、草、土に染み入るかとぞ聞えける。鹿の声より落る涙と詠みたまひし古人の、ぢいにあすなりけりとなんおぼえける。

 昔、女、八月ばかりに北の国へ行きけるに、あぢさゐ咲き居たり、あたりには蜻蛉飛び居たりければ、詠める。
   紫陽花にトンボとまれば北海道
 北の国の、亜寒帯気候なれば、あぢさゐ枯れぬさきに蜻蛉飛ぶなり。

(現代語訳)
 昔、女がいた。都会に飽き飽きしてきたので、大自然ときれいな水を求めて北海道へ旅行に行った。洞爺湖の近くの山を歩いていると、数匹の鹿と出会った。少しの間、立ち止まって女を見つめていたが、すぐに森の中へ逃げて行った。その後、鹿の鳴き声が聞こえてきた。高い声は澄んで瑞々しく、森中に響き渡ってそのまま木々や土に染み込んでいくかに思われた。「鹿の声より落つる涙」と詠んだ古人は天才である。

 昔、女が北海道を一人旅していた。時は八月だと言うのに、紫陽花が美しく咲き、辺りにはトンボが飛んでいた。そこで一句。
   紫陽花にトンボとまれば北海道
 北海道は、本州とは気候が違って夏が短いので、紫陽花とトンボが同時に見られるのだという。


【以下、おまけ】

秋萩に乱るる玉は
鳴く鹿の声より落る涙なりけり
(『貫之集』353)

(意訳)
あちこちの萩に、宝石のような露が置いている。その露は、あたりに寂しく響く鹿の鳴き声から零れ落ちた涙なのだ。


 「鳴き声から落ちる涙」という表現に感動した一首です。
 一匹の鹿が放った声は、波紋状に広がり、あたりの萩に露を装わせて消える。音楽にも、絵画にも、アニメーションにもできない、きっとどれだけ科学技術が進んでも、表現できない異次元の世界。言葉だけが創り出せる、共感覚の世界。ではないでしょうか。
 研究者でもない身で、「だけ」と強く限定する言葉を使うのは勇気がいりますね。一個人の印象であって、深く検証した上での発言ではないので悪しからず。

 
(古文文法は得意ではないので、おかしな箇所があればご指摘いただけると幸いです。)

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