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ヨコハマ・ラプソディ 7

七.チョコパフェ 

志織と「タップス」を見に行ってから数日経った日の夜、俺が珍しく大学の授業の勉強をしていた時だった。
「コンコン」
誰かが部屋をノックする音がした。
「はーい」
「なあ、松崎。お前、彼女いたよな。二人でうちらのライブに来ない?」
ドアを開け、無精ひげの生えた顔を覗かせたのは、同じ学年で社会学部の富田だった。いつも部屋でギターを弾いているやつだ。
「ライブ? ああ、お前バンドやってたっけ。なんの曲やんの? そもそもどんなジャンル演るんだっけ?」
富田がギターを弾いていることは知っていたが、俺は富田が弾くギターの音をちゃんと聞いたことはなかったし、彼がどんな曲を弾いているかも詳しくは知らなかった。
「フュージョンってやつ。うちらカシオペアのコピーバンドやってるから」
「ああ、カシオペアか。『アイラブニューヨーク』とか?」
「ははは。よく知ってんじゃん。でも古いよ、それ。で、彼女の分と二枚、チケット買って」
「いつやんの?」
「えーっと、来月六日の日曜の午後一時から。場所は川崎の『ユーロピアン・ナイト』ってとこ。駅からも歩いて近いから」
「六日か。確か、まだちゃんとした予定はなかったと思うけど」
「一枚二千円。頼む、二枚買って。ノルマがあってさあ。あと二十枚ほど売らなきゃなんなくて。お願い、頼む」
「う~ん。二枚で四千円かあ」
四千円はちと悩むところだが、以前志織からの急なデートのお誘いがあった時に、富田には寮の受付当番を代わってもらったことがある。同学年の彼にはなにかと物事を頼みやすく、他にも色々と借りがあった。もちろん、貸しもあったけど。
川崎だったら横浜からも近いし、たまには変わったとこに出向くのもいいかと思った。それにもし、志織の都合が悪ければ、代わりに誰か音楽好きの寮生を誘うか、なんならそいつに半額で売りつければいいと。
「いいよ。二枚頂戴」
「さすが松崎さん、ありがたや。助かるう」

ということで、後日、志織から電話がかかってきた時に富田のライブの話をしたら、彼女は意外と喜んでいた。
「えーっ、私、行きたーい。今までライブハウスのような場所には行ったことがないの。一度行ってみたかったのー」

当日、川崎駅の中央南改札を出たところで、志織と待ち合わせた。
やって来た志織の服装は、赤系の服に黒のスカートだった。
う~ん。
最近巷で話題の、いわゆる「竹の子族」、とまでは言わないが、やや微妙といったところか。けれど、志織本人は実にウキウキと喜んでいるように見えた。まあ、よしとするか。
俺たちは徒歩五分ほどの距離にある、富田が言っていたライブハウスへ歩いていった。
「信也さんはライブハウスって、行ったことあるの?」
「うん。佐賀にいた時、友達に誘われて一度だけ行ったことがある」
「へー。その時はどんなバンドだったの?」
「お目当てはビートルズのコピーバンドだった。まあ、お世辞にもあまり上手いとは言えなかったな。もちろん口にはしなかったけどね」
バンド名は確か「コールド・ターキーズ」だったっけ。ジョン・レノンの曲名から取ったらしいが、完全に名前負けしていた。

「ユーロピアン・ナイト」というライブハウスは、客席もステージも俺が思っていたより広い、ちゃんとした立派な店だった。俺はもっと狭いところかと思っていたのだが。
今回、ライブハウスで演奏するバンドは、全部で四組だ。富田たちの出番は一番手だと聞いている。
客席は開演直前になると、意外と混んできた。この中のどれぐらいの人たちが富田たちのバンドがお目当てなのか、俺にはよくわからなかったが、そこそこ人気があるのかもしれない。
「ねえ、カシオペアってどんなの?」と、志織から聞かれたが、実は俺もあまりよく知らなくて上手く説明できなかった。
「う~ん、俺も詳しくは知らない。基本的には歌がなくて、楽器だけで演奏するバンド」とだけ答えた。でも、確か「アイラブニューヨーク」という曲には、声を電気的に加工したボーカルも入っていた記憶がある。
俺たちは客席後方の丸いテーブルに座り、俺はビール、志織はアイスティーを飲み、サンドイッチと鳥の唐揚げをつまみながら、富田のバンドの演奏開始を静かに待っていた。
やがて、ステージ上を淡く照らしていた照明が消える。

ドラムスティックのカウントに続いて、富田が弾くギターのリズミカルなカッティングから始まった彼らのステージは、いきなり客席が盛り上がった。
素晴らしくノリのいい、明るい感じのイントロで始まった曲は、どことなく聞いた覚えがあった。観客の多くがドラムの音に合わせて手拍子を打ち、体でリズムを取っている。その曲演奏後の、彼らの曲紹介では「朝焼け」という曲名だった。
富田のバンド「T・A・C・G(タッグ)」という名の彼らの演奏は、俺が思っていた以上に上手かった。ただ上手いというだけではない。もうめちゃくちゃ上手かった。
構成はギター、キーボード、ベース、それにドラムスの四人だ。それぞれの個人のテクニックが優れているのはもちろんだが、メンバー全員が所々でリズムをピタッと「キメる」とこなどが最高にカッコよく、なんだか脳味噌が痺れる感覚さえ味わった。
富田もいつもの寮内での、のほほんとした姿からは想像できないほど、エレキギターを弾き鳴らす姿が見事にきまっている。なにより楽しそうにのびのびと弾いていた。
客席も演奏中はスローテンポの曲以外、ずっと盛り上がっていた。どうやら、富田のバンドは俺が思っていた以上に人気があったらしい。
最後にアンコールで彼らが演奏した「ギャラクティック・ファンク」という曲では、これがまた凄まじい、メンバー全員のテクニックの応酬を目の当たりにした。ステージと客席がそれこそ一体となって最高に盛り上がった。それはまさに圧巻というべきものだった。
彼らがオープニングで演奏した「朝焼け」を始めとした、カシオペアの曲の洗練されたメロディーとアレンジは、俺には非常に心を惹かれるものがあった。
今までほとんどボーカルが入った曲ばかり聞いていた俺にとって、歌のない、かつテクニックとリズムの効いた「フュージョン」の曲がとても斬新に感じられたのだ。これはあとで絶対に、富田からカシオペアのレコードを借りなければならない。
志織も「フュージョン」自体にはあまり関心を示さなかったが、「あの人たち、大学生というよりプロみたい」と、彼らの演奏技術の高さにいたく感心していた。
「つまり、プロはあれ以上っていうことだ」
「そっかー、当たり前だけどプロってすごいのね」

この日、俺は志織の短所を発見した。微妙に手拍子がずれていて、お世辞にもリズム感がいいとは言えなかったのだ。おまけにそれは、いかにも民謡や演歌のノリだった。
それでも複雑なフュージョンのリズムに合わせようと、一生懸命に手を叩いている志織がけなげで、いじらしくて、俺はさらに志織がいとおしくなった。
あばたもえくぼと、言わば言え。俺はそんな志織が大好きなんだっ。

いつの間にか、俺以外の寮生三人が別の客席にいてビールを飲んでいた。だいたい富田と仲のいい、一コ下のやつらだ。あまり寮生にチケットは売れなかったらしい。
富田のやつ、ノルマは達成できたのだろうか。他人事ながらちょっと心配になった。確かに国立から川崎はちと遠いかもしれない。いつも横浜まで通っている俺からすれば、川崎なんてまだ近い方なのだが。

富田が演奏終了後しばらくして、俺と志織が座っているテーブルに、額に浮いた汗をタオルで拭きながら挨拶にやって来た。
「おお、松崎。来てくれてありがとう」
「富田、お前スゲーじゃん。お前のギター初めてちゃんと聞いたけど、めちゃくちゃ上手いじゃねーか」
「ありがとう。まあ、ちょこちょこミスもあったけどな」
「いや、そんなの全然気付かなかった。それにしても凄かった。ちょっと感動した。それとあとでカシオペアのレコード貸してくれ。すんごく気に入ったから」
「ああ、いいよ。一枚二百円な」
「セコイな、てめー」
「冗談だよ」
俺は富田に志織を紹介した。志織はすぐに椅子から立ち上がると、「長澤志織です。よろしくお願いします」と言って、富田に向かって深々と頭を下げた。
「おお、噂の彼女さんか。なるほど、思っていた以上に可愛い人だ」
「いいえ。そんなことないです」と、志織は顔を真っ赤にして照れていた。
他の三人の寮生とも合流した俺たち六人は、同じテーブルに集まって他のバンドの演奏を聴き、ビールなどを飲みながらワイワイと盛り上がった。
俺はみんなが集合した時に、他の寮生にも志織を紹介した。
「松崎さんって、いつの間にこんな可愛い彼女作ってたんですか?」と佐山が言った。
佐山は社会学部の二年生だ。四角い強面の顔にがっちりとした体格で、高校時代はラグビー部だったらしい。でも見た目に似合わず性格は穏やかなやつだ。
「えっ、佐山。お前知らなかったの? 松崎さん、急にこの春ごろから寮内放送でしょっちゅう電話の呼び出しされてたじゃん。そんで夜中によく電話してんじゃん」と平岡が言う。
平岡は法学部法律学科の二年生で将来は弁護士を目指している。一見優男風に見えるが安易に自分の意志を曲げないやつで、寮内でも有数の切れ者の一人だ
「ああ、あれってそういうことだったのか。知らなかった」
「相当鈍いなお前。それに前からちょっと噂になってたよ。大学通りの桜まつりの時に見かけたって、栗山さんたちが言ってた。凄く可愛い人だったって。松崎さんにはもったいないって」
確かに、志織は俺にはもったいない。それは認める。それにしても自分の彼女を可愛いと褒められるのは、悪い気はしないがなんとも恥ずかしかった。
でもな、最初に会った時は、もうちょっと地味な子だったんだぞ。
「俺も噂は聞いてて、今日初めて会ったんすけど、実際、マジで可愛いじゃないですか。松崎さん、俺、うらやましいっす。どこでひっかけたんすか?」と北島が聞いてきた。
北島は文学部の二年生。今どきのファッションに詳しく、くだらない冗談を言うのが好きな、寮内のムードメーカーだ。
「ひっかけたとか言うな。ほら二部の入試の時に、川崎校舎に入寮情宣でビラ撒きに行っただろ。あのあと横浜に本を探しに行って、そこで偶然知り合ったんだよ」
「へー。入寮情宣のあとでナンパしたんすか」
「だから、ナンパじゃねーって言ってんだろうが」
俺は苦笑しながら答えた。
「国立から横浜って、結構距離ありますよね? 毎回電車賃大変じゃないですか?」
平岡からの質問に、俺は涼しい顔で言った
「そんなもん、大した金額じゃないよ」
「おー、さすがー」
それは半分本当で、半分は強がりだった。往復千四百円近くかかる電車代の負担が、俺にとって大変じゃない訳がない。僅かでも電車代節約のためにと、寮から最寄りの国立駅ではなく、片道二十五分近くの時間をかけて南武線の谷保駅まで歩いて行き来したことは、一度や二度ではない。それに俺は志織と付き合い始めて、平日に行う短期のバイトをすることが次第に増えていった。
「俺も高校生の彼女、欲しいなあ。ねえ、志織さん。誰か友達、紹介して」
北島からの図々しい申し出に、志織は申し訳なさそうに目を伏せながら言った。
「ごめんなさい。私の友達、みんな彼氏いるんです」
「えーっ。そんなあ」
「北島お前、彼女作って遊ぶ金があったら、この間お前に貸した二万円、早く返せよ」
「ごめん佐山。バイト代入るまで、もうちょっと待って」
「いいや、待たねえ。はよ返せ。今返せ」
「勘弁してよー。富田さん、佐山になんか言ってやってくださいよー。今日のライブのチケットも俺、その金で買ったじゃないすかあ」
「北島、お前が悪い。今返せ」
「富田さんまで、そんなあ。じゃあ、佐山。ビール一杯おごるから。それで勘弁して」
「つーか、それじゃ俺の金で、俺がビール飲むだけじゃねーか」
「じゃもう、どうすりゃいいんだよー」
「あはははは!」

そんなこんなで、俺たちは客席での会話と、富田たち以外のバンドの演奏も含め存分に楽しんで、ライブハウスをあとにした。
ただ、「私の友達、みんな彼氏いるんです」と話した志織の言葉だけが、俺の心に僅かに引っかかっていた。今までそんな話は聞いたことがなかったからだが、たぶん、北島の要請を断るために適当に答えたのかもしれない。もちろんそれでいい。
志織は学校でのクラスメイトや、自分の友達などについて、俺に話をすることはあまりなかった。

しかし、本当の問題はそのあとだ。
ライブハウスを出たあと、他の寮生と別れ、志織と二人で入った川崎駅前の喫茶店で、俺は彼女と揉めてしまった。
俺と志織の小説や料理の好みはよく合ったが、音楽の志向は別だった。だからかもしれないが、普段は音楽の話をすることはあまり多くなかった。
志織が好きだと言っていたのは、主に松任谷由実さんや八神純子さん、中島みゆきさん、それと竹内まりやさんなどの「ニューミュージック」と言われる音楽の女性アーティストたちで、レコードもそこそこ持っているという。
俺はビートルズから始まり、基本的にはずっと外国のロックだ。エリック・クラプトン、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、イーグルス、ピンク・フロイド。特にTOTOが俺のお気に入りだった。でも、どのアーティストもアルバムのほとんどを買い揃えるほどの熱心さはないし、この年二月のTOTOの日本ツアーも高いお金を払ってまで足を運ぼうとは思わなかった。いわゆるライトファンにすぎないと思う。
俺が日本の曲で比較的好きだったのは、YMOの「RYDEEN」を始めとしたいくつかの曲と、「風立ちぬ」以降の松田聖子さんぐらいだ。ニューミュージックや、日本語で歌われるロックはどれもいまいちピンとこなくて、どちらかといえばそれら日本の曲を「格下」に見ていた。
富田のライブの直後だったということもあって、珍しく音楽の話題になり、おまけに俺がビールで酔っていたせいもあったのかもしれない。つい調子に乗って、俺は軽薄なおのれの音楽論を志織に語ってしまった。
「TOTOは凄いよ。メロディーもアレンジも日本人が作る音楽の数年先は行ってる。それと比べたら、日本の歌謡曲とかニューミュージックは格下っていうか、なんか子供っぽくって、あんまり聞く気がしないんだよなあ」
「私は日本の歌謡曲もニューミュージックも好き」
「そりゃいい曲も少しはあるけど、でも正直、歌謡曲なんてほとんどつまんない曲ばっかりじゃん」
「本人が本当に好きなものについて、安易にケチをつけるのは下品だと思う」
「いや、別にケチをつけるつもりはない。なにが好きかは本人の自由だ。けど、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』の荘厳とも言えるアレンジとか、イーグルスの『ホテルカリフォルニア』のイントロとかギターソロなんか、何度聞いてもほれぼれするし、TOTOの『ハイドラ』とか『セントジョージ・アンド・ザ・ドラゴン』を聞いてるとため息が出る。やはり音楽的センスに関しては、外国の一流ミュージシャンのほうがはるかに上をいっていると思う」
すると突然、志織がひどく怒った。
「音楽に上とか下とかはない! 外国の曲が上なんてこともないし、日本の歌謡曲が下なんてこともない! 信也さんがそんなこと言うなんて信じらんない! 私帰る!」
えぇぇ、たかが音楽のことぐらいで。そんなぁ。
でも志織はバッグを持って立ち上がり、本当に一人で店を出ようとした。
時々、可愛くほっぺを膨らませることは何度かあったが、志織がこれほど怒りの感情をあらわにするのは、今まで見たことがない。
とにかくこれはかつてない緊急事態だ。なんとかして早急にことを収めなければ、悔やんでも悔やみきれないことになりかねない。
俺は慌てて謝った。謝って謝って、謝り倒した。
「ごめん。上とか下とかいう言葉を使ったのは、確かに俺がまずかった。俺はTOTOの曲を聞いて、こういうメロディーは日本人の頭からは生まれないだろうなと思った。単純にTOTOを持ち上げたいだけだった」などと必死に言い訳をし、頭を下げた。俺の態度を真摯に反省していると見てくれたのか、志織はなんとか帰るのを思いとどまってくれた。
「わかった。もうしばらくいてあげる」
本当に助かった。もし志織からフラれたら、俺は生きる希望を失くしてしまう。
でも言われてみれば、まさに志織の言う通りだ。俺は猛烈に反省した。

彼女の、ダメなものはダメとはっきりと言うところは、確かに俺には耳の痛いとこではある。しかしそれ以上に、俺にとって好感の持てる部分でもあった。
このことに限らず、志織から教えられたことは多い。
東京に出てきた時には、中華料理と言えばラーメンと餃子ぐらいしか思い浮かばなかった俺に、中華料理にもマナーがあることを教えてくれたのも志織だった。器には口をつけないようにするとか、取り皿はどんどん替えていくものだとか、あまり使うことはなかったが、円卓の回転台は時計回りに回すとか。
それに、志織は現代文学だけでなく、『源氏物語』や『更級日記』、『枕草子』などの古典文学にも詳しかった。当時の日本人が持っていた感性や美意識などが描かれた、優れた古典の作品について、海外の文学に決してひけをとらない素晴らしさを俺に語ってくれた。
志織と会うまでは、俺にとって古典文学とは高校の授業、あるいは大学入試の対象としての意味以上のものはなかったのだが、志織がそれらは立派な日本の誇るべき文化であると教えてくれた。
少女漫画にも詳しかったけど。『スケバン刑事』はいくつか読ませてもらった。
三才年下とはいえ、一人の女性として尊敬できる部分をいくつも持っていた志織。俺はそんな彼女が本気で好きだった。

その場は結局、俺がお詫びの印と言って、店の名物らしい大きなチョコパフェを志織にご馳走し、なんとか機嫌を直してもらった。パフェは志織の大好物だ。
その時の、「パフェなんかじゃ、誤魔化されないわよ」などと言いつつ、嬉しそうにチョコパフェを頬張る志織の顔が、俺にはどうにも、可愛くてしょうがなかった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。