ヨコハマ・ラプソディ 8 国立寮
八.国立寮
とうとう関東地方も梅雨に入った六月中旬。ある日の電話で、志織は大学へ進んだらいずれ一人暮らしがしたいと話していた。その話の流れで、志織が国立寮の俺の部屋まで遊びに行きたいと言い出し、結局次の日曜日、寮に来ることになった。もちろん彼女が俺の部屋まで来るのは、今回が初めてのことである。
この日の俺は朝早くに目が覚めた。じっとしていられなくて、やたらコーヒーが飲みたくなり、ロビーの自販機まで何度も往復した。吹かすタバコの本数もついつい増えてしまう。
自分の部屋に女の子を迎え入れるなど初めてのことだし、なにより俺はこれから訪れる、ある意味「密室」に志織と二人っきり、という状況にドキドキしていたのだ。
しかし、こういう日に限って面倒事が起きてしまう。
「三一三号室の松崎さんと二〇一号室の加藤さん。至急、受付まで」
志織を迎えに寮を出る直前、俺と寮自(治会)の副委員長である加藤を呼び出す寮内放送が聞こえてきた。
何事かと思って一階の受付室へ降りると、スーツ姿の見知らぬおっさんが傘を差し、一人で玄関の前に立っていた。
彼は俺と加藤に名刺を渡しながら言った。
「私、公安調査庁の篠崎と申します」
ついに来たか。それにしても、日曜日に休日出勤とは仕事熱心なことだ。さて、なにを聞かれるか。
髪を七三分けにし、いささかくたびれ気味の紺色のスーツを着た調査官と、俺と加藤、それとちょうど受付を担当していた、もう一人の副委員長である高橋の四人で、玄関のドアの外、庇の下で立ち話をした。
「別の件で近くまで来たので、立ち寄らせてもらいました」
「ああ、そうですか」
「この寮は建築されて何年経つの?」
「二十年ぐらいです」
「ここの敷地に止まってる自動車は、全部寮生の車?」
「はい」
そんな、特に当たり障りのない会話をしたのち、十五分ほどで「今日は、ありがとうございました」と言って、調査官は帰って行った。
正直、拍子抜けした。
「高橋、なんだったんだ? あれ」
「さあ、緊張して損したな」
「暇つぶしで立ち寄ったんじゃないの?」
三人でそんな会話をしたあと、ふと腕時計を見ると、志織との待ち合わせの時刻を十分も過ぎていた。まずい。
慌てた俺は、玄関の傘立てから自分のビニール傘を抜き取り、うっとうしい小雨が降る中を国立駅まで急いで志織を迎えに行った。途中に公安調査庁の調査官の姿は見えなかった。
国立という、一橋大学をはじめとした数多くの学校が存在する文教地区としても知られた街。そのシンボルでもある赤い三角屋根をした古い木造駅舎である国立駅の、南口改札を出たところで、志織は俺を待っていてくれていた。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ」
「ごめん。ホントごめん」
彼女の思いやりに感謝しながら、俺はひたすら謝った。先日のチョコパフェの件以来、俺はどうにも志織に頭が上がらない。
志織の今日の服は、白のブラウスに薄い青と白のチェックのスカートで、髪型は久々に俺の好きなポニーテールだ。
志織は今どき流行りの、いわゆる「聖子ちゃんカット」を始めとした色々な髪型をしていたが、「やっぱり、志織にはそのポニーテールが一番似合ってて可愛い」と、遅れたお詫びも込めて彼女の髪型を褒めると、「そう?」とまんざらでもなさそうに微笑んでくれた。
国立駅前から続く長い旭通り商店街の歩道を、傘を差しながら二人で歩いた。
「へー、国立にも映画館があるんだ」
「うん。客席はそんなに広くないけどね」
この日の上映は「機動戦士ガンダムⅡ」と「なんとなく、クリスタル」の二本立てだった。いったい、なにを考えてこの組み合わせにしたのだろう。理解に苦しむ。
「それにしても、この雨いつまで続くんだろうな」
「ねえ。そろそろ太陽の光が欲しいよね」
「梅雨が明けたらどっか行きたいとこ、ある?」
「私、また野毛山動物園に行きたい」
「えっ、そんなとこでいいの? 海とかは?」
「海は大好きだけど、私、あんまり泳げないし」
ん?
一瞬、志織の水着姿を想像した俺の全身がカッと熱くなる。
う~ん、見てみたい。でも、他の野郎どもには見せたくない。
「別に泳がなくても、海辺を散歩するだけでもいいんじゃない?」
「そうね。でも、野毛山動物園はまた行きたい。ゾウのはま子に会いたいの」
そんな話をしながら歩いているうちに、やっと国立寮の門の入口までたどり着いた。
「法文大学国立寮」のプレートが嵌めこまれたコンクリート製の質素な門から、寮の玄関へ続く五十メートルほどの通路の両脇には、今の時期、紫陽花がそこかしこに花を咲かせている。鮮やかな青、うす紫、あるいは淡いピンク色の花びらを見て、志織は「梅雨って紫陽花の季節だから、そこだけは好き」と、顔をほころばせた。
まず、寮の玄関脇にある受付室で外来者の受付をする。
法文大学国立寮は、東京大学の駒場寮や京都大学の吉田寮などと同じような、いわゆる自主管理の寮だ。だから公安調査庁の人間が来た時は、寮自治会の組織のことなどを聞かれるかとかなり緊張した。もちろん、寮の内部事情などを安易に教える訳がないのだが。
昔は国立寮にも大学から派遣されてきた寮監がいたが、寮内で寮生の思想チェックなどをして大学当局に報告していたことが発覚し、今からおよそ十年前、当時の寮生が寮監を実力で追い出した。その後大学当局との交渉において、寮生が自主的に寮の管理運営を行うことを認めさせた。
玄関の鍵の管理も寮生で行い、外来者の受付や、かかってきた電話の対応も寮生全員が当番を組んで行う。
この時は、すでに高橋と交代していた増田という一年生が受付を担当していたのだが、俺が外来者名簿に志織の名前を記入し、先ほどの、公安調査庁の調査官とのやり取りの一部を受付日誌に追加でメモして、志織と二人でゲタ箱のスリッパに履き替えている間にも、かかって来た電話に出て本人を寮内放送で呼び出したり、配達されていた郵便物をそれぞれの寮生のボックスに入れたりと、てきぱきと業務をこなしている増田の姿を見て、志織はいたく感心した様子だった。
二階のロビーに上がると掲示板に張られた、立川の自衛隊基地に反対するビラや、八王子キャンパスで行われる演劇集団「炎の旅団」の公演を知らせるポスターなどを興味津々といった表情で眺めている。
そんな志織が女子の寮生を見かけて、ちょっと驚いていた。
「えっ、女の人もいるの?」
「うん、数は少ないけどね。トイレも男女で分けてるし、お風呂の時間も、女性専用の時間が設定されている」
「覗いたりされないの?」
「そんなことをしたやつは、袋叩きにした上で、実力で寮から追い出す。けど女子寮生を受け入れ始めてからこれまで、そんなやつは一人も出てないけどね」
「ふ~ん」
ロビーから階段を上がって三階の左手、廊下の突き当りにある大きな部屋が、寮生集会などを行う会議室。その真上の四階にあるのが娯楽室で、この日もジャラジャラと麻雀牌をかき混ぜる音が上から聞こえていた。
鉄筋コンクリート造り四階建ての国立寮に、部屋は各階に十六室ある。造りは一応二人部屋だが、今は一年生が住む二、三室を除き、一人一部屋で住んでいる。
俺は三階にある自分の部屋に、志織を招き入れた。ドアを閉める時、一瞬迷ったが鍵は掛けなかった。なんとなくその方がいいと思ったのだ。
本と大きめのラジカセ以外は大した物のない、ポスターの一枚もない殺風景な部屋を、志織はしげしげと眺めている。
部外者には見せてはいけない極秘の内部資料や、その手の雑誌はちゃんと隠しておいた。
「うふふっ」
なぜか突然、志織が笑い出した。
「なにかおかしい?」
「やっぱり、この部屋。女っ気ないね」
「なくて悪かったな。だいたい、そんなもんある訳ないだろ。それともあったほうがよかったのか?」
「ううん。でもちょっと安心しちゃった。けど、男の人の部屋ってもっと乱雑で、物で溢れているのかと思ってた。本当に本以外、なににもないのね」
確かにそうだなと、改めて自分の部屋を見回していると、「なんかこの部屋、タバコくさーい」との、志織様からの仰せが。
「ああ、ごめん」
そうか、タバコ臭いのか。自分では気が付かなかった。俺は慌ててベランダ側の窓を開けた。
志織はあまり整理されているとは言い難い俺の机の上の、灰皿一杯になったセブンスターの吸い殻を見つけると俺に言った。
「あれ? 信也さんって、こんなにもタバコ吸う人だったっけ?」
「うん。部屋にいて本を読んでる時とか、あと寮で会議をしてる時とかにね」
「私といる時には、吸ってるの見たことないけど」
「まあ、一応ね」
俺はニコチン中毒というほどではなかったので、志織の前でタバコを我慢するくらいは平気だった。
「別にいいのに」
(そうはいかねえよ)
志織は早速、本棚に並ぶ俺の本を見て言った。
「戦争の本が多いのね。『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』、ふ~ん。『史録日本再軍備』、『実録第二次世界大戦―運命の瞬間』、それと『破綻 陸軍省軍務局と日米開戦』。へーっ、やっぱり政治学科だから?」
「う~ん。それはあまり関係ないかな」
「でも、なぜ日本が勝目のない戦争を始めたのか知りたいと思って、法律学科じゃなくて政治学科を選んだんでしょ?」
「まあ、最初のきっかけはそうだけど、国際政治を動かすダイナミズムのようなものを学びたいって思ったのもあるんだけどね」
「ふ~ん」
「それに、実際は大学の講義で戦争を取り扱うことは、ほとんどないし。これらの本は、ただ単に興味を持っただけ」
「ふ~ん、あっ『我が闘争』もある。それと『資本論』か。ねえ、『資本論』って面白い?」
「全然。というか難しい。正直さっぱりわからん。一応、寮内で勉強会やってるから古本屋で買ったけど」
「あとこの『政治学原論』ってのも難しそうね。こんなのも読んでんの?」
「それは大学の授業で使うテキスト」
「あっ、トルストイの『戦争と平和』があった。これ全部読んだの?」
「うん」
「あとこの辺は前に借りた司馬遼太郎さんに新田次郎さん、筒井康隆さん。この『孤高の人』と『農協月へ行く』の中の『経理係長の放送』は面白かったなあ。それとレイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメットって、これって信也さんが好きなハードボイルドね。あっ、北方謙三って、このあいだ言ってた同じ佐賀の人でしょ。この『ちょうしょうはるかなり』でいいの? これって面白い?」
「まあまあ、面白い」
「まあまあか。あと大藪春彦さんのも多いね。好きなの?」
大藪春彦氏の作品については、あまり志織に話したことはない。
「うん、結構好き」
「ふ~ん」
「あっ、飲み物買って来るから、ちょっと待ってて」
「うん」
寮内にはいくつかの自動販売機があるが、生憎、どれも紅茶は売ってない。俺は二階のロビーの自販機で同じ飲み物を二つ買い、部屋に戻った。
「えっ、あー、なつかしー。リボンシトロン!」
「はは。なつかしいでしょ」
「ありがとう。これ子供の頃好きだったの。まだあったのね。それも瓶入り!」
「うん。今じゃ滅多にお目にかかれないやつ」
「ねえ、この部屋、テレビないけど」
「うん」
「つまんなくないの?」
「別に。だいたい本を読んでるか、音楽聞いているから。それに本当に見たけりゃ、二階のロビーにテレビあるし、他の寮生の部屋でも見れるしね」
「ふ~ん」
志織がまた俺の本棚を眺めている時、「コンコン」とドアがノックされた。
「はーい。ちょっと待っててね」
「うん」
ドアを開けると、さっき玄関先で一緒に公安調査庁の調査官と対応した加藤がいた。彼は俺と同学年で文学部。生真面目過ぎるきらいはあるが、頼りになる、いいやつである。
「あ。お客さんいる時にごめん。これ今度の寮生集会のレジュメだけど、読んでチェックしてくれる?」
「ああ、わかった。いつまでに?」
「できれば今日中に」
「了解。チェックしたら、あとでお前の部屋に持っていくよ」
「よろしくな」と言って、志織にぴょこんと頭を下げて加藤は去って行った。
「それなあに?」
「今度の寮生集会の資料。この寮は寮生が自主管理してるから、寮内のことは寮生集会を始めとした、色んな会議で寮生全員が話し合って、寮生全員で決めてるのさ。さらに決まったことは寮生全員が守る。それがこの寮の大原則」
「へー。えらーい」
「別にえらくはない。たぶんそれが一番いい方法だと思ってるから、やってるだけ」
「ふ~ん」
「ところで志織。大学どこ受けるかもう決めた?」
「う~ん。まだ決めてない」
「ある程度は考えてるだろう?」
「う~ん、ある程度はねえ」
以前具体的な大学名をいくつか聞いたことはあったが、俺は志織の受験先の話題をこれでやめにした。あまり本人にプレッシャーになることは避けたい。
志織がベッドのふちに腰掛けて『日本のいちばん長い日』を読んでいる時、「ねえ、参謀総長と軍令部総長ってどう違うの?」と聞いてきた。
「確か、陸軍のトップが参謀総長で、軍令部総長が海軍のトップだったと思ったけど。あれ? どうだったっけ?」と言いながら、俺は本を開いている志織の隣に座った。
途端に匂いたつ、ある意味女子高生特有の甘い香り。女子大生になると化粧の匂いが強くなるが、志織にそれはない。
志織が開いているページを見てみると、梅津参謀総長と豊田副武軍令部総長が云々というくだりがあった。どちらも見覚えのある名前だ。
「ああ、やっぱりそうだ。確かどっちも徹底抗戦派だったよな」と言った俺が無意識に顔を上げた時、ポニーテールにするために後ろ髪をかき上げていた志織のうなじが、もろに目に入った。
この至近距離、この角度で志織のうなじを見たのはこれが初めて。
まずい。色っぽい。あぁぁ。
う~ん。
俺の脳裏に、あるアニメのワンシーンが思い浮かぶ。『ルパン三世 カリオストロの城』だ。ラスト近くのシーンで、ルパンがクラリスを抱きしめようとするが、腕をぐぐぐっとさせてギリギリ思いとどまるシーン。まさにあの心境だ。うん、あれはカッコよかった。けど……。徐々に俺の手がムズムズしてくる。
「コンコン」と、またノックの音がした。
「はーい」(ナイスタイミング)
「松崎、この間借りたやつ」と言いながら、西山さんがドアを開けた。西山さんは経済学部で一コ上の四年生だ。去年は国立寮自治会の委員長を務めていて、今も寮自の執行委員の一人だ。
「あ、お客さん? ごめん。これ返す」
西山さんの手には、三日前に貸した、たがみよしひささんの『軽井沢シンドローム』第一巻があった。
「ああ、はい。どう? 面白かった?」
「ああ、面白かった。邪魔してごめんな」と言って、やはり志織に向け、ぴょこんと頭を下げて、ドアを閉めて去って行った。
「色んな人がやって来るのね」
「まあね」と言いながら、俺は『軽井沢シンドローム』を志織の目に触れないよう、さりげなくドアの近くにある棚の上に置いた。このコミック本を高校生である志織に見せるのは、かなり気が引ける。性的に露骨なシーンが多いのだ。
俺はまた、それとなく志織の隣に座った。
すると、俺の目を見ていた志織が、ふと目を閉じた。ん??
直後、あっちを向いて「プシッ!」
可愛いくしゃみだ。こんな可愛いくしゃみ、見たことない。しかし、ほんのちょっとでも想像した俺がバカだ。
「ん。風邪か?」
「ごめんごめん。大丈夫」
お互いの顔を見ながら、二人で笑い合った。
結局、俺と志織との間に色っぽい雰囲気が漂うこともなく、志織は俺の本棚から『日本のいちばん長い日』とジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を借りて帰った。
俺はまた、志織を国立駅まで歩いて送った。小雨はまだ降り続いている。俺は駅までの道中、ずっと考えていた。
この雨いったい、いつまで続くんだろう。早いとこ梅雨、明けねーかな。そしたら志織と野毛山動物園だけじゃなくて、色んなところに行きたいな。そのためにもまたバイトしなきゃな。
「じゃあまた。今度は次の日曜日ね」
「うん。またいつものMoonで。気を付けて帰れよ」
「うん。じゃあね」
国立駅の改札口で志織の後ろ姿を見送る。彼女がホームへあがる階段に足をかける直前、俺に振り向き微笑みを返す。その笑った顔のなんと可愛らしいこと。
俺は志織に出逢えたことを、密かに何者かに感謝した。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。