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ヨコハマ・ラプソディ 8

八.国立寮 

とうとう関東地方も梅雨に入った六月中旬。ある日の電話で、志織は大学へ進んだら、いずれ一人暮らしがしたいといった話をしていた。その話の流れで、志織が国立寮の俺の部屋まで遊びに行きたいと言い出し、結局次の日曜日、寮に来ることになった。もちろん彼女が俺の部屋まで来るのは、今回が初めてのことである。

この日の俺は朝からそわそわしていて、どこか落ち着きを失くしていた。自分の部屋に女の子を迎え入れるなど初めてのことだったし、なにより俺はこれから訪れる、ある意味「密室」に志織と二人っきり、という状況にドキドキしていたのだ。

志織を迎えに寮を出る直前に、寮生の間で起きた、洗濯機の使い方を巡るちょっとしたトラブルで当事者同士をなだめていたせいで、俺は予定より二十分ほど出遅れていた。
俺はビニール傘を差して国立駅まで足早に志織を迎えに行った。うっとうしい小雨は相も変わらず、今日もしとしとと降り続いている。
国立という、一橋大学をはじめとした数多くの学校が存在する文教地区としても知られた街。そのシンボルでもある赤い三角屋根の、古い木造駅舎の国立駅南口改札を出たところで、志織は俺を待っていてくれていた。

「ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこ」
「ごめん。ホントごめん」
彼女の思いやりに感謝しながら、俺はひたすら謝った。
志織の今日の服は、白のブラウスに薄い青と白のチェックのスカートで、髪型は久々に俺の好きなポニーテールだ。志織は今どき流行りの、いわゆる「聖子ちゃんカット」を始めとした色々な髪型をしていたが、俺はこのポニーテールが志織には一番似合っていると思っていた。

国立駅前から続く長い旭通り商店街の歩道を、傘を差しながら二人で歩いた。
「それにしても、この雨いったい、いつまで続くんだろうな」
「ねえ。そろそろ太陽の光が欲しいよね」
「梅雨が明けたらどっか行きたいとこ、ある?」
「私、また野毛山動物園に行きたい」
「えっ、そんなとこでいいの? 海とかは?」
「海は大好きだけど、私、あんまり泳げないし」
ん?
一瞬、志織の水着姿を想像した俺の全身がカッと熱くなる。
う~ん、見てみたい。でも、他の野郎どもには見せたくない。
「別に泳がなくても、海辺を散歩するだけでもいいんじゃない?」
「そうね。でも、野毛山動物園はまた行きたい」
そんな話をしながら歩いているうちに、やっと国立寮の門の入口までたどり着いた。
門から寮の玄関へ続く五十メートルほどの通路の両脇には、今の時期、紫陽花がそこかしこに花を咲かせている。鮮やかな青、うす紫、あるいは淡いピンク色の花びらを見て、志織は「梅雨って紫陽花の季節だから、そこだけは好き」と、顔をほころばせた。

まず、寮の玄関脇にある受付室で外来者の受付をする。
法文大学国立寮は全国でも数少ない、いわゆる自主管理の寮だ。昔は大学から派遣されてきた寮監がいたが、寮内で寮生の思想チェックなどをして大学当局に報告していたことが発覚し、今からおよそ十年前、当時の寮生が寮監を実力で追い出した。その後大学当局との交渉において、寮生が自主的に寮の管理運営を行うことを認めさせた。
玄関の鍵の管理も寮生で行い、外来者の受付や、かかってきた電話の対応も寮生全員が当番を組んで行う。
この日も増田という一年生の寮生が受付を担当していたのだが、俺が外来者名簿に志織の名前を記入し、二人で下駄箱のスリッパに履き替えている間にも、かかって来た電話に出て本人を寮内放送で呼び出したり、配達されていた郵便物をそれぞれの寮生のボックスに入れたりと、てきぱきと業務をこなしている増田の姿を見て、志織はいたく感心した様子だった。
二階のロビーに上がると掲示板に張られた、政治的あるいは文化的なビラやポスターを興味津々といった感じで眺めている。
そんな志織が女子の寮生を見かけて、ちょっと驚いていた。
「えっ、女の人もいるの?」
「うん、数は少ないけどね。トイレも男女で分けてるし、お風呂の時間も、女性専用の時間が設定されている」
「覗いたりされないの?」
「そんなことをしたやつは、袋叩きにした上で、実力で寮から追い出す。けど女子寮生を受け入れ始めてからこれまで、そんなやつは一人も出てないけどね」
「ふ~ん」

鉄筋コンクリート造り四階建ての国立寮に、部屋は各階に十六室ある。造りは一応二人部屋だが、今は一年生が住む二、三室を除き、一人一部屋で住んでいる。
俺は三階にある自分の部屋に、志織を招き入れた。ドアを閉める時、一瞬迷ったが、鍵は掛けなかった。なんとなくその方がいいと思ったのだ。
本と大きめのラジカセ以外は大した物のない、ポスターの一枚もない殺風景な部屋を、志織はしげしげと眺めている。
部外者には見せてはいけない極秘の内部資料や、その手の雑誌はちゃんと隠しておいた。

「うふふっ」
なぜか突然、志織が笑い出した。
「なにかおかしい?」
「やっぱり、この部屋。女っ気ないね」
「なくて悪かったな。だいたいそんなもんある訳ないだろ。それともあったほうがよかったのか?」
「ううん。でもちょっと安心しちゃった。けど、男の人の部屋ってもっと乱雑で、物で溢れているのかと思ってた。本当に本以外、なににもないのね」
確かにそうだなと、改めて自分の部屋を見回していると、「なんかこの部屋、タバコくさーい」との、志織様からの仰せが。
「ああ、ごめん」
そうか、タバコ臭いのか。自分では気が付かなかった。俺は慌ててベランダ側の窓を開けた。
志織はちょっと散らかった机の上の、灰皿一杯になったセブンスターの吸い殻を見つけると俺に言った。
「あれ? 信也さんって、こんなにもタバコ吸う人だったっけ?」
「うん。部屋にいて本を読んでる時とか、あと寮で会議をしてる時とかにね」
「私といる時には、吸ってるの見たことないけど」
「まあ、一応ね」
俺はニコチン中毒というほどではなかったので、志織の前でタバコを我慢するくらいは平気だった。
「別にいいのに」
(そうはいかねえよ)

志織は早速、本棚に並ぶ俺の本を見て言った。
「戦争の本が多いのね。『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』、ふ~ん。『史録日本再軍備』、『実録第二次世界大戦―運命の瞬間』、それと『破綻 陸軍省軍務局と日米開戦』。へーっ、やっぱり政治学部だから?」
「う~ん。それはあまり関係ないかな」
「あっ『我が闘争』もある。それと『資本論』か。ねえ、『資本論』って面白い?」
「いや、全然。というか、難しい。正直さっぱりわからん。一応、寮内で勉強会やってるから古本屋で買ったけど」
「あとこの『政治学原論』ってのも難しそうね。こんなのも読んでんの?」
「それは大学の授業で使うテキスト」
「あっ、トルストイの『戦争と平和』があった。あとこの辺は前に借りた司馬遼太郎さんに新田次郎さん、筒井康隆さん。この『孤高の人』と『農協月へ行く』の中の『経理係長の放送』は面白かったなあ。それとレイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメットって、これって信也さんが好きなハードボイルドね。あっ、北方謙三って、このあいだ言ってた同じ佐賀の人でしょ。この『ちょうしょうはるかなり』でいいの? これって面白い?」
「まあまあ、面白い」
「まあまあか。あと大藪春彦さんのも多いね。好きなの?」
大藪春彦氏の作品については、あまり志織に話したことはない。
「うん、結構好き」
「ふ~ん」
「あっ、飲み物買って来るから、ちょっと待ってて」
「うん」
寮内にはいくつかの自動販売機があるが、生憎、どれも紅茶は売ってない。俺は二階のロビーの自販機で同じ飲み物を二つ買い、部屋に戻った。
「えっ、あー、なつかしー。リボンシトロン!」
「はは。なつかしいでしょ」
「ありがとう。これ子供の頃好きだったの。まだあったのね。それも瓶入り!」
「うん。今じゃ滅多にお目にかかれないやつ」
「ねえ、この部屋、テレビないけど」
「うん」
「つまんなくないの?」
「別に。だいたい本を読んでるか、音楽聞いているから。それに本当に見たけりゃ、二階のロビーにテレビあるし、他の寮生の部屋でも見れるしね」
「ふ~ん」
志織がまた俺の本棚を眺めている時、「コンコン」とドアがノックされた。
「はーい。ちょっと待っててね」
「うん」
ドアを開けると、同じ学年で文学部の加藤がいた。
「あ。お客さんいる時にごめん。これ今度の寮生集会のレジュメだけど、読んでチェックしてくれる?」
「ああ、わかった。いつまでに?」
「できれば今日中に」
「了解。チェックしたら、あとでお前の部屋に持っていくよ」
「よろしくな」と言って、志織にぴょこんと頭を下げて加藤は去って行った。
「それなあに?」
「今度の寮生集会の資料。この寮は寮生が自主管理してるから、寮内のことは寮生集会を始めとした、色んな会議で寮生全員が話し合って、寮生全員で決めてるのさ。さらに決まったことは寮生全員が守る。それがこの寮の大原則」
「へー。えらーい」
「別にえらくはない。たぶんそれが一番いい方法だと思ってるから、やってるだけ」
「ふ~ん」
「ところで志織。大学どこ受けるかもう決めた?」
「う~ん。まだ決めてない」
「ある程度は考えてるだろう?」
「う~ん、ある程度はねえ」
以前具体的な大学名をいくつか聞いたことはあったが、俺は志織の受験先の話題をこれでやめにした。あまり本人にプレッシャーになることは避けたい。

志織がベッドのふちに腰掛けて『日本のいちばん長い日』を読んでいる時、「ねえ、参謀総長と軍令部総長ってどう違うの?」と聞いてきた。
「確か、陸軍のトップが参謀総長で、軍令部総長が海軍のトップだったと思ったけど。あれ? どうだったっけ?」と言いながら、俺は本を開いている志織の隣に座った。
途端に匂いたつ、ある意味女子高生特有の甘い香り。女子大生になると化粧の匂いが強くなるが、志織にそれはない。
志織が開いているページを見てみると、梅津参謀総長と豊田副武軍令部総長が云々というくだりがあった。どちらも見覚えのある名前だ。
「ああ、やっぱりそうだ。確かどっちも徹底抗戦派だったよな」と言った俺が無意識に顔を上げた時、ポニーテールにするために後ろ髪をかき上げていた志織のうなじが、もろに目に入った。
この至近距離、この角度で志織のうなじを見たのはこれが初めて。
まずい。色っぽい。あぁぁ。
う~ん。
ふいに俺の脳裏に、あるアニメのワンシーンが思い浮かぶ。『ルパン三世 カリオストロの城』だ。ラスト近くのシーンで、ルパンがクラリスを抱きしめようとするが、腕をぐぐぐっとさせてギリギリ思いとどまるシーン。まさにあの心境だ。うん、あれはカッコよかった。
「コンコン」と、またノックの音がした。
「はーい」(ナイスタイミング)
「松崎、この間借りたやつ」と言いながら、西山さんがドアを開けた。西山さんは経済学部で一コ上の四年生だ。去年は国立寮自治会の委員長を務めていて、今も寮自(治会)の執行委員の一人だ。
「あ、お客さん? ごめん。これ返す」
西山さんの手には、三日前に貸した、たがみよしひささんの『軽井沢シンドローム』第一巻があった。
「ああ、はい。どう? 面白かった?」
「ああ、面白かった。邪魔してごめんな」と言って、やはり志織に向け、ぴょこんと頭を下げて、ドアを閉めて去って行った。
「色んな人がやって来るのね」
「まあね」と言いながら、俺は『軽井沢シンドローム』を志織の目に触れないよう、さりげなくドアの近くにある棚の上に置いた。このコミック本を高校生である志織に見せるのは、かなり気が引ける。性的に露骨なシーンが多いのだ。
俺はまた、それとなく志織の隣に座った。
すると、俺の目を見ていた志織が、ふと目を閉じた。ん??
直後、あっちを向いて「プシッ!」
可愛いくしゃみだ。こんな可愛いくしゃみ、見たことない。しかし、ほんのちょっとでも想像した俺がバカだ。
「ん。風邪か?」
「ごめんごめん。大丈夫」
お互いの顔を見ながら、二人で笑い合った。

結局、俺と志織との間に色っぽい雰囲気が漂うこともなく、志織は俺の本棚から『日本のいちばん長い日』とジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を借りて帰った。
俺はまた、志織を国立駅まで歩いて送った。小雨はまだ降り続いている。俺は駅までの道中、ずっと考えていた。
この雨いったい、いつまで続くんだろう。早いとこ梅雨、明けねーかな。そしたら志織と野毛山動物園だけじゃなくて、色んなところに行きたいな。そのためにもまたバイトしなきゃな。

「じゃあまた。今度は次の日曜日ね」
「うん。またいつものMoonで。気を付けて帰れよ」
「うん。じゃあね」
改札口で志織の後ろ姿を見送る。彼女がホームへあがる階段に足をかける直前、俺に振り向き微笑みを返す。その笑った顔のなんと可愛らしいこと。
俺は志織に出逢えたことを、密かに何者かに感謝した。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。