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ヨコハマ・ラプソディ 3

三.深夜の電話 

それから俺と志織は、ほぼ毎週のように、主に横浜市内で「デート」をするようになった。志織が春休み中は週に二度会ったりもした。
だいたいは喫茶店で貸し借りした本の感想を述べ合ったり、他に読んだ本の話をしたり、映画を見たり、本屋の中をぶらついたり。
お店や映画館を出たあとは、港の見える丘公園や横浜外国人墓地、山下公園などの、いわゆる定番のデートスポットや、他の公園を散策するのがいつものパターンだった。
志織との「デート」は、俺にとってかつてないほど新鮮なもので、鮮烈なまでに楽しい経験だった。なにせそれは、高校時代のものとは大きく違った「デート」だったからだ。

当時、同じクラスだった彼女と付き合い始めたのは、実は高校三年の二学期の中盤に差し掛かった、お互い完全に受験勉強の最盛期の頃だ。
ある日の放課後、佐賀市内の積書館という本屋の中、「赤本」と呼ばれる大学・学部別の大学入試過去問題集が並ぶ本棚の前で、俺は偶然同じクラスだった彼女とばったり会った。
彼女が俺に「松崎君はどこ受験するの?」と声をかけてきたのが最初のきっかけだった。
それまで、教室の中でもほとんど会話をしたことのなかった二人だったが、どちらもある同じ大学、それも同じ学部を受験しようと考えていたことから話が弾んだ。
積書館を出たあと、彼女に誘われて入った近くの喫茶店で、俺が語った三島由紀夫の話でなぜか二人は意気投合し、付き合うまでに発展していった。彼女は三島由紀夫のファンだった。
俺はどちらかというと、彼の晩年の右翼的行動に対する、やや批判的な意味も交えて三島由紀夫の話をしたのだけれど、彼女はそれを意に介さなかった。彼女の周りには三島由紀夫に興味を持つ人が誰もいなくて、三島の話ができること自体が彼女にとって嬉しかったらしい。
彼女はクラスの中でも確かにきれいな子、ではあったけれどなにか、ちょっと物事に対する冷めた感じというか、「憂い」のようなものを感じさせる女の子だった。おまけに無理に大人ぶるところがあり、男子生徒をことごとく子供扱いした。それらが周りの男子からは少し取っ付きにくいと思われ、でも俺の目にはどこか魅力的に映っていた。
とにかく受験勉強がとても大事な時期だから、もちろん二人が頻繁に会うこともなかったし、ましてや遠くへ遊びに行くなんてこともなかった。当時佐賀市内に気の利いたデートスポットなど、ほぼ存在しなかったし、結局一度も映画を見に行く機会もなく、俺たちは短い付き合いを終えた。
俺たちはごくたまに喫茶店で話をするか、ほとんどは彼女の家の中で会うことが多かった。彼女の部屋で三島由紀夫や三島も影響を受けていたとされる堀辰雄の話をしたり、それぞれの得意な教科を教え合ったり、他愛もないことを話し合ったりした。
とはいえ、そんな彼女に対しても、俺はずっと無口なままだった。ある程度慣れていても、やはりきれいな女性を目の前にすると、どうしても緊張してしまう。それが俺にはどうにも歯がゆかった。
でも彼女は俺の寡黙な態度がそれほど気にならなかったみたいで、二人の関係はそれぞれが佐賀を離れる直前まで続いた。
関係といっても、彼女の部屋の中で、俺たちは特に変なことなどやっていない。
いわゆる「清い交際」ってやつだ。受験が終わるまで俺たちはキスのひとつもしなかった。
そう、受験が終わるまでは。

いつの間にか、話があらぬ方向へずれていたようだ。
そうそう、大事なのは志織のことであって、昔の彼女じゃない。今は志織とのデートの話だった。
だから志織と出会って、横浜市内の有名なデートスポットを散策し始めた頃は、
(やはりデートって、一緒に並んで歩いたり、同じ景色を見て感想を言い合ったりして、二人で喜びを共有するモノだよなあ)
と、しみじみ感じたものだった。
志織と付き合うまでは横浜外国人墓地など、なぜ墓地がデートスポットとして人気があるのか不思議に思っていたが、実際に行ってみると、十字型のお墓が立ち並ぶ雰囲気は外国映画に出てくるワンシーンのようで、決して悪くないのだった。とはいえ、歩いている途中で俺はすぐに飽きてしまったのだが。でも近くにはいくつかの立派な西洋館があったりして、なにかと異国情緒も楽しめる地域だ。
初めて港の見える丘公園の展望台で志織と横浜港の景色を見た時は、いかにも二人は恋人同士、という雰囲気を実感できて、ちょっとした優越感と感動を味わった。
俺は散歩好きな志織に誘われて、野毛山公園や掃部山公園、本牧山頂公園などにも行った。野毛山公園には動物園があっておまけに無料で入れた。お金もなく、おのずとデートにかけられる予算が限られた俺にとって、野毛山動物園は気軽に楽しめるありがたい場所だった。
そうやって、横浜市内の色々なスポットに志織と二人で足を運んだ。

でもこれまで一度だけ、俺が住んでいる寮がある国立へ志織を誘ったことがある。
桜の季節、国立駅から南へ一直線に延びる、大学通り沿いの桜のトンネルが見事なのだ。
満開の桜を見て喜ぶ志織の笑顔が嬉しくて、また、桜並木を背景に立つ志織の姿はまるで一枚の絵画を見ているかのようで、俺はその光景を目にした時、一瞬息を吞んだ。
幸い当日は心配していた雨も降らず、二人で屋台のたこ焼きや、ソフトクリームを食べながら桜の下を散策した。
桜の花びらが舞い散るなか、ソフトクリームを片手に志織が、「私、好きな人とこうして桜並木を見ながら歩くのが、ずっと夢だったの」と、ちょっとした上目遣いをしながら言った。この上目遣いが、またなんとも愛くるしく、なにより俺のことを「好きな人」と言ってくれたことに、俺は少し、いや、猛烈に感動していた。
当の俺は「うん、俺も」と短く答えるのが精一杯だった。
桜満開の大学通りを歩く途中、何人かの同じ寮に住む仲間を見かけたが、俺と目が合っても彼らは知らんぷりをしてくれた。でも内心ニヤニヤしていたのは明らかに見え見えだったが。
俺が女性と二人でいるのが、そんなに意外だったのか。まあ、そうだろう。
寮に入ってから、俺の身の周りに女性のじょの字も感じさせるものは、ほぼなかったと言える。

国立駅前の桜が葉桜になった頃のある雨の日。いつものMoonで、「まだ雨の日は学校サボってんの?」と俺が志織をからかうと、「ううん。もう探し物は見つかったから」と彼女が答えた。
志織は雨の日に、いったいなにを探していたのだろう、相変わらず不思議なことを言う子だなと思いながら、「そりゃあよかったね。もう学校サボんなよ」と言って、探し物がなんだったのかまでは聞かなかった。
まあ、いずれ志織に聞いてみる機会もあるだろう、と俺はあまり気にしなかった。

またそれからしばらくして、デートで大林宣彦監督の映画「転校生」を見る予定だった日。志織が待ち合わせた映画館の前に現れるなり、俺に声をかけてきた。
「ねえ、今から散歩に行かない?」
「えぇぇ、今からぁ?」
ひどく面食らったが、俺は志織の散歩に付き合うことにした。
元々どうしても見たいという映画でもなかったし、俺は志織といられるなら本当は場所など、どこでもよかったのだ。
「しょうがねえなぁ。別にいいよ。まあ、今日は天気もいいし。で、どこに行く?」
「山手公園。生麦事件って知ってる? あれがきっかけでできた公園なのよ」
日本史を得意としていた俺にとって、生麦事件は当然よく知っている出来事だった。
幕末の頃、薩摩藩士一行が横浜生麦村を通っていた時、薩摩藩の行列を馬に乗ったまま横切った英国人四人を、無礼だとしてその場で殺傷した事件だ。後の薩英戦争の原因にもなった。
なるほど、ここは横浜だったなと、今、自分が横浜という日本の歴史、特に幕末から明治にかけての重要な土地にいることに改めて気付いた俺は、なんとも感慨深く感じた。
 
爽やかな快晴の空の下での山手公園の散策は、俺たちにとって大正解だった。木々の若葉が芽吹き始めていて黄緑色が目に鮮やかだったし、なにより八重桜が見頃を迎え、心地よい風が吹く度に舞い散る桜吹雪が、俺たちのデートを演出してくれた。
志織の気分もすこぶるよさそうで、ベンチに座っていると時折、両足を前に出してパタパタと地面を叩いている。機嫌がいい時の志織の癖だ。見ていると本当に可愛い。
なんでも山手公園は日本初の洋式公園であり、さらに日本におけるテニス発祥の地だそうで、俺たちが訪れた時も「パコーン」とテニスのボールを打つ音が聞こえてきた。
 
俺たちは次の目的地、山手イタリア山庭園へ行こうと、志織が通う清水平高校からひとつ通りを隔てた、あまりひと気のない小道を歩いていた。志織が言うにはこちらの方が近道だそうだ。小道からはマンションなどの建物に遮られ、志織の高校の建物などはほとんど窺うことはできなかった。
それでも日曜日とはいえ、志織の高校からは野球部の「カキーン」という金属バットでボールを打つ音や、ブラスバンドの部員が吹く、サックスやトロンボーンなどの楽器の音色が聞こえてきた。
ああ、学校の音だ。
ずいぶんと懐かしい記憶が脳内によみがえる。
「うちの高校の吹奏楽部は、前に全国コンクールで入賞したこともあるの。結構優秀でしょ。ちょっと自慢なの」
「ほお。そりゃ凄い」
高校の吹奏楽部の全国コンクールは、出場するだけでも大変なのだと聞いたことがある。おまけに入賞したとなれば、それこそ大した実力だ。
「でも、去年は地区予選で唐沢第一高校ってとこに敗れて、数年ぶりに支部大会にも進出できなかったのよね」と、志織はいかにも悔しそうに下を向いた。
吹奏楽部といえば、俺の初恋の人は中学生二年の時のクラスメイトで、吹奏楽部でクラリネットを吹いていた女の子だった。そういえば、彼女も授業をよく休む子だったのを思い出した。
俺って学校をサボる女の子に弱いのか。
でもちょくちょく学校を休むこと以外に、似通っていた点は思い出せない。今見ても志織はとにかく可愛いという印象だが、クラスメイトだった初恋相手の子はどちらかというと、きれいというタイプだった。
思えば当時、自分もできれば吹奏楽部に入って、初恋の子と仲良くなりたかった。他にもきれいな女性部員が何人もいたし、中学時代の俺にとって吹奏楽部は憧れのクラブだった。
などと、当時のことを思い出していたら、少しずつ学校から遠ざかっていつの間にか楽器の音も聞こえなくなり、人影のない小道は、俺と志織の会話以外は二人の足音だけが聞こえるようになった。
そんな時、志織が歩きながら、俺にはよくわからないことをポツリと言った。
 
「私、信也さんに出会ってなければ、今頃あっちに行ってたかも……」
 
横を振り向くと、志織は空を見上げていた。それは、ほぼ雲ひとつない、きれいに澄み切った真っ青な空だった。
 
「ん? あっちって? 志織が吹奏楽部に入部していたかもってこと?」
「そうじゃないの」
「じゃあ、さっき言ってた、吹奏楽で志織の高校を破った、別の高校に転校してたかもしれないってこと?」
「転校とかそんなんじゃなくて。もっと別の形」
「? う~ん、よくわからん。どういう意味?」
「なんでもない。もうそれはいいの」
「いや、よくない。ちゃんと俺にもわかるように説明してくれ」
「あのね。信也さんと出会えたから、今、私はここにいるってこと」
「ん? そりゃそうだろう。俺も志織と出会っていなければ、俺も今、ここにはおらんぞ」
「うふふ。やっぱりあれは正しかったのよね。信じててよかった。だって本当に信也さんに会えたんだもの」
また空を見上げながら嬉しそうに言った志織は、いきなり俺を置き去りにして走って行った。
「待てよ、志織。さっきからなんの話してんだよ」
志織は立ち止まって振り返ると、俺にこう言った。
 
「ねえ! 私を追いかけてきて!」
 
まったく、なんなんだ、いったい。この、ひと昔前の青春ドラマのような「クサイ」展開は。正直言って俺の性には合わない。
それでも俺は志織に付き合うことにした。なぜなら、相手が志織だからだ。志織がすることは、俺は大概のことは許せてしまう。
「よっしゃ! かけ足で俺にかなうとでも思っておるのか! この愚か者めが!」
 
志織は笑いながら走って逃げた。思ったより彼女の足は速かったが、所詮俺にかなう訳がない。田舎者ゆえ、歩く足は遅いかもしれないが、俺は小学生の頃から駆け足はそこそこ速いほうだ。
俺はあっさりと、志織の細い腕を掴んだ。「ほーら、捕まえた」と言って立ち止まり、志織の顔を見ると、彼女も黙って俺の目をじっと見た。
そのまま、二人でお互いを見つめ合った。
が、なぜかふいに気まずくなって、二人とも顔をそむけてしまった。俺は志織の柔らかい腕を掴んでいた手を放した。
「さっきの……」
「私、パフェが食べたい。ねえ、信也さん! 一緒に食べに行こう!」
志織は人懐っこい笑顔で俺をはぐらかし、俺もそれ以上深く追及しなかった。
 
結局、山手イタリア山庭園は後回しにして、二人が追いかけっこをした小道から歩いてすぐ近くの白い壁の喫茶店に入り、俺たちは二人ともいちごのパフェセットを注文した。
店内からは横浜港方面の景色が一望でき、長居をしてしまいそうな予感がするほど居心地のいい店だった。
俺は酸味の効いたいちごのパフェを味わいながら、また志織の長いおしゃべりに付き合っているうちに、さっきの、学校のそばで彼女が話していたことを思い出していた。
志織はいったい、どこへ行こうとしていた、というのだろう。
またしても俺には理解不能だった。
やはり志織って少し不思議な子。でも、そこがなんとも魅力的なんだよな。
俺は頬杖をつきながら、志織のどこか幼さが残る丸い顔を飽きもせず、ずっと眺めていた。

おしゃべり好きな志織とは、電話でもよく話をした。もちろん話すのはほとんどが彼女の方で、俺は専ら聞き役なのだが。
志織はいつもなぜか、寮の赤と黄色、二つの公衆電話のうち、赤い方の電話にかけてくることが多かった。黄色い方にかけてくる時は必ず赤い電話器が話し中の時で、これまでほんの数回しかなかったと思う。
志織から言われた通り、俺は自分から彼女の家へ電話をかけたりしなかったから、俺たちが電話で話すのは、いつも志織からかけてきた時だけだった。
志織が電話で話す時の内容は、小説や映画の話というより、どちらかというと自分の身の回りに起きた他愛のない話が多かった。
突然いとこが名古屋から自分の家に遊びに来たとか、伊勢佐木町で思い切って赤いスカートを買ったとか、夜中に家が停電になって、懐中電灯が見つからずに大騒ぎになったとか。「このあいだねっ」って言いながら、なんだか楽しそうだった。
必ずしも毎回長電話という訳ではなかったが、一時間以上、時には二時間近くなることもたまにはあった。受付終了間際にかかってくると、午後十一時半を過ぎても志織の話は終わらない訳だが、話が長くなることはさほど、俺にとって苦になるものではなかった。
俺は自分から話をするのは苦手だが、人の話を聞くことは嫌いではない。なにより、俺は志織の声が好きだった。優しくて柔らかな、ほんのちょっとだけ甘ったるい声。電話の受話器を通すと少し声質が変わるのだが、その声も好きだった。

そんな、志織と初めて出会って一か月半ほど経った頃の、ある深夜のこと。
周りに誰もいない寮の玄関近くの、赤い電話器で俺たちが二人で話しをしていた時、志織が唐突に、「信也さんって私のこと、嫌い?」と聞いてきた。
突然、なんの脈絡もなく、それも冗談っぽくではなくどこか真剣な雰囲気で、志織が俺に問いかけてきた。

「私のこと、好き?」ではなく「私のこと、嫌い?」

志織の言葉に、俺は頭の隅に引っかかるものを覚えながら、答えた。
「はあ? 心外だな。そんな訳ないよ」
「本当?」
「当たり前だろ。そもそも嫌いになる理由、そのものがない」
「本当に?」

本当になかった。
電話だけではなく普段での話が長いことも、急に当日になって映画じゃなくて散歩がしたいと言い出すような、少々気まぐれなとこも。時々公園のベンチや映画館にバッグを置き忘れる、おっちょこちょいなところも。志織の「声」のことさえも、俺にとってなんの問題もなかった。
志織が気にするような態度や言葉を、俺が彼女に見せたり聞かせたりした記憶はまったくない。ではなぜ、志織はこんなことを言い出したのか。
気になったのはやはり、志織に聞こえる「声」のことだ。
ひょっとして、志織は「声」のことを、それを俺に話してしまったことを、ひどく気にしているのではないのか。
もしかしたら、「声」のことを誰かに話したせいで、その人に嫌われたことがあったのだろうか。または志織が好意を寄せていた人が、実は志織を嫌っているという「声」が聞こえたことがあったのかもしれない。俺の想像し過ぎだろうか。
俺は最初に山下公園で志織から話を聞いて以来、これまで一度も「声」のことについて彼女と話をしたことはない。二人が付き合う上で志織の「声」のことは、俺にとってなんの障害にもならなかった。

今まで志織は、「ねえ、私のこと好き?」とか「私のこと愛してる?」などと、俺に愛情の確認をしてくることはまずなかった。
もっとも、俺も「志織のこと、好きだよ」とか「愛してるよ」とかは、口に出して言うことはほぼなかったが。でも、気持ちはお互いに通じ合っているとずっと思っていた。
俺にとって「愛してる」などという言葉は、もっと「後」の段階に進んだ時の言葉だと思っていた。
そういう時の。

「俺が志織のことを嫌いになることは、永遠にないよ」
俺は志織に答えた。本気でそう思っていた。
彼女は俺の言葉を聞くと「ありがとう」と安心したように、もしくは聞くべきものを聞いた、という風にひと言言って「じゃあ、おやすみなさい」と電話を切ろうとした。
俺は慌てて「あっ、ちょっと待って。あっ、そうそう、今度見に行く予定の映画、別のにしない?」と無理やり会話を続けた。
とても、そのまま電話を終わらせたくなかった。終わらせてもいけなかった。やはり俺にとって志織は、「放っておいてはいけない存在」なのだ。
俺は他の寮生の部屋でたまたま読んだ『ぴあ』という雑誌に載っていた、別のいくつかの映画の題名を必死に思い出し、その映画を勧める理由をあれこれ考えながら、深夜であろうとなんだろうと、今すぐに横浜へ行って志織に会いたいと切実に思った。
もしこの時、俺が車を持っていたら本当に「今から会いに行く」と言い出し、実際に会いに行ったかもしれない。いや、志織さえ「うん」と言ってくれたら、間違いなく行った。
それほど俺にとって、志織の「私のこと、嫌い?」はインパクトのある言葉だった。

でも一度だけ、志織に直接、「好き」と言ったことはある。聞いた本人は覚えていないかもしれないが。
ある喫茶店のオープンテラスでお茶を飲んでいた時、たまたま志織の手の甲に、ちっちゃな緑色をした蜘蛛が止まったことがあった。
世の中にはそんな小さな蜘蛛や虫でも異様に毛嫌いする女性もいて、自分の腕に止まろうものなら大げさに腕を振ったり、中には大声を出したりして騒ぐ女性を、俺は何人か見てきた。
けれど、志織は何事もないように、手の甲を自分の目の前へ持ち上げて、優しくフッと息を吹きかけて蜘蛛を逃がしてやった。
俺はその時、「俺、志織のそういうとこ、好き」と言った。
彼女はなぜかキョトンとした顔をしていた。俺は彼女がもう少し喜んでくれると思っていたので、志織の反応はいささか物足りなかったのだが。
恐らく手に止まった蜘蛛を逃がすなど、志織にとってごく当たり前のことだったのだろう。田舎ならともかく都会の人では珍しいと思った。
志織は小さな生き物に対する慈しみの心を持った、優しい女性だった。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。