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ヨコハマ・ラプソディ 4

四.馬車道 

四月も半ばを過ぎ、暖かいというより、日によっては少し暑さも感じるようになった頃。
馬車道にある、志織お気に入りの紅茶専門店へ二人でランチに行った。
志織によれば、馬車道は幕末時の横浜港の開港後、当時の外国人が万国橋付近から吉田橋関門までの道を馬車で往来していて、人々に彼らの姿は非常に珍しく思われ「異人馬車」などと呼ばれていたことから、いつしか当時の人たちが「馬車道」と呼ぶようになったらしい。
桜木町駅から歩いて十分ほどの、馬車道にある「ティールーム 馬車道」という店は古くからある老舗の紅茶専門店らしく、壁に飾られた絵などがどこか落ち着いた雰囲気を醸し出していた。けれど、店内にいるお客のほとんどが女性で、俺はあまり落ち着かない感じがした。
この日は、志織がミートソースのパスタにアイスロイヤルミルクティー、俺がオムライスにアイスティーを頼んだ。普段、あまり紅茶は飲まない俺だが、ここの紅茶は今まで飲んできたものと比べて、そう悪くない。
食事のあと、ゆっくりと二人でそれらを飲んでいた時。志織が、「ねえ、法学部の授業って面白い?」と、俺に尋ねてきた。

「特に面白くはない。基本的には。でも、ためになる授業はあるよ」
「例えばどんな?」
「う~ん。例えば憲法学とか。基本的に法律は国民を縛るものだけど、憲法は国家を縛るものだとか。言われてみて、なるほどなと思うこともあるし。あとこの間、民法の講義で習ったのが『失火責任法』っていうのがあってな、この法律によって、自分の家から火を出して周りの家まで燃え広がっても、その損害を賠償する責任がないのよ」
「えー、なんで?」
「ほら、日本は昔っから木造の家が多くて、おまけに割と密集してるだろ。一旦火災が発生すると周りに燃え広がりやすいという環境にあるから、自宅を失った上に、もらい火を受けた人たちに対する損害賠償責任を負わせるのは、個人の賠償能力をはるかに超える、という考え方なんだよ」
「へえー」
「もちろんわざとやったり、重過失といって、例えば石油ストーブのそばに蓋を開けたガソリン入りの缶を置いていたりとか、あからさまな不注意の場合はダメだけど」
「ふん、ふん」
「あと民法で言えば、例えば口頭での約束でも民法上では契約が締結されたことになる。いくら口約束でも相手がそれを守らなかったことで損害が生じた場合、損害賠償請求ができる」
「へー。そうなんだ」
志織が真面目な顔で、俺が話す法律の話を聞いている。志織がこれほど法律に関心を示したのは意外だった。俺はもう少し民法の話を続けることにした。
「それといくら契約といっても公序良俗に反する契約は無効。例えばどちらかが一方的に暴利を得るとかね。もっとわかりやすく言えば、殺人の委任契約なんかがそうだな」
「やっぱり法学部に行って、色んな法律を勉強すると、それってなにかの役に立ったりするのよね。でも文学部って別に役に立たないし」
「う~ん……」
そういうことか。志織はそんなことを気にしていたのか。
「法律の授業が、なにかの役に立つとは必ずしも言えないけどね。でも確かなにかの授業で、どっかの教授が言ってたな。『役に立たない』ということは、必ずしも『価値がない』ということではないって。俺もそのとおりだと思う」
「うん」
「文学の持つ価値って、人の役に立つ立たないというのと、まったく違うところにあるって俺達よく知ってるだろ」
「そうだよね。そうなんだよね」
一瞬、志織の目が泳いだ気がした。なにかあったのだろうか。
「なに? 誰かから、なんか言われた?」
「理系の学部に進学しようとしている子からね、文学ってなんの役に立つのって。文学部ってなんのためにあんのって」
志織の話を聞いて、俺も少々カチンときた。
「そういうアホな子はほっとけ。じゃあ、アインシュタインの相対性理論がなんの役に立ったよ。原爆作って何十万も人殺しただけじゃん。まあ、極端な例かもしれんけど」
「うん」
「原子力発電だって、あれってなんだかんだ言って結局、ウランでお湯沸かしてるだけなんだぜ」
「ふ~ん」
途端に興味なさそうな返事をした志織だったが、最近原発問題に関心を持っている俺のほうに火が着いてしまった。
「おまけに原発から出る高レベル放射性廃棄物の処分方法も、安全に処分する方法って未だに存在しないし」
「ふ~ん。よく知ってるね」
「そもそも、そんなに原発が安全なんだったら、電気の使用量が一番多い東京に……。えっと、なんの話だったっけ」
「う~ん、文学ってなんの役に立つのって」
「あっ、そうだった。でもさ、そんなアホな理系の連中なんて、志織だったら簡単に言い負かすことぐらいできるだろう」
「私、あの子なんとなく苦手なのよね。なんか、いつも話がかみ合わないというか。悪い子じゃないんだけど」
「ほー。さすがの志織サンにも苦手なものがあったのか」
「あるわよ、それぐらい」
「例えば、他にはどんな?」
「例えば……オバケとか」
「アハハハハハハ!」
「もう! 笑わないでよ」
いかん。少し笑い過ぎたようだ。
「ごめんごめん。確かに怖いよな。でもあれって、所詮、脳の中の出来事だから」
「どういうこと?」
「だから、現実の物質的現象じゃないってこと」
「だから! どういうことなのよ!」
うん、やはりそういう反応になるよな。ここからは霊というものに対する俺の考えについて、ちょいと志織に聞いてもらうこととしよう。
「だって、幽霊ってすぐ消えちゃうじゃん。それってどこに行ったの? 消滅したの? 現実の物質だったら、幽霊には質量があるってことになる。それこそ相対性理論じゃないけど、物質だったらそれが消滅したら、瞬時に莫大なエネルギーが発生する。E=mc²ってやつ。だいたい一グラムの物質が消滅すると、地震で言うとマグニチュード七ぐらいのエネルギーが発生するって聞いたことがある。幽霊の質量が何グラムか知らんけど、消えた、つまり消滅した途端、そんな物凄いエネルギーが発生したなんて話、聞いたことないぞ」
「でも、実際見たことあるって言う人もいるし」
「人間の脳というのは、幽霊のような、よくわからないものが見えるようにできているって聞いたことがある。ないはずの物が見えたり、または、あるはずの物が見えなかったり。元々そういう風にできていると。つまり幽霊って人間の脳が見せているものなんじゃないかな」
「でも、心霊写真とかってのもあるし」
「あれは、ほとんどが錯覚だし、それに写真は光を写すものだし。光は時々いたずらするからな」
「いたずら?」
「光には波と粒子、両方の性質があって、特に波はお互いに干渉するし、打ち消し合ったり、増幅したり。そのせいで物が変に写ったり……とかっていうのは、全部俺の独自理論だけどな」
独自理論というより、ほとんどこじつけに近い。
「信也さんって、結構理系ぽいとこもあるのね」
「これでも子供の頃の夢は、天文学者になることだったんだぞ」
「えー、うそー」
「うそ言ってどうするよ。佐賀にいた頃は星を見たら、だいたいあの星は何座だっていうのは、すぐにわかったりしたもんだったけど、東京じゃあんまり星、見えないからな。もう、ほとんどわかんなくなっちゃった」
「へー、そうだったのねー。私、いつか信也さんと星を見に行きたいなー」
そう言いながら、志織があどけない表情を俺に見せてくれた、この夢を見るような目が、なんともたまらなく愛おしい。よし。いつか絶対一緒に見に行こうぜ、志織。
「そうだな。夏の夜の高原とかな。俺もそんなとこで満天の星というものを見てみたい。でもそれは志織が大学生になってからの話だ。だから、アホな理系のやつらの言うことなんか気にしないで、ちゃんと文学部に進学して、文学という学問をしっかり探求してくれ」
「うん」
がんばれよ、志織。俺がいつも応援してるからな。
「それにちょっと違う意味だけど、文学というモノは、立派に俺の役に立ってるし」
「それってどんな?」
「文学というモノがなければ、俺は志織に絶対出会えていない」
「…………」
「なんで、そこで黙るんだよっ」
「私はそうは思わない」
「あ、そう?」
「私はいつか必ず信也さんに出会ってた。そう信じてる」

志織に言われて、俺は思わず黙った。そして、耳まで赤くなってしまった。た。


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