見出し画像

受苦と共感と救済の物語:P.K. Dick 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」 "Do Androids Dream Electric Sheep?"

映画「ブレードランナー」で有名な Dick の傑作のひとつである。個人的には、「UBIK」 や「テレポートされざる者」 あるいは「Valis」のほうが好きだ。それらと比較して「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」は、どちらかというとまとまっていて、あまり破綻したところがないからだ。


ここに描かれる世界は、少し異様に思えるかもしれない。舞台は、核戦争後の廃墟となった地球である。太陽も隠される灰色の空から降る放射能の灰は、崩壊一歩前のビルに住む生き残ったわずかな人々をも蝕んで行く。彼らの間では、ペットの飼育が流行していた。実際、戦争直後は動物を飼わないことは違法であったし、違法でなくなった今でも、動物を飼わないことは不道徳で不人情と思われるのだ。しかし実際には、屋外では生命は死に絶えて本物の動物は稀少であり、多くの人の飼うペットは本物と区別がつかないほど精巧なロボットなのだ。

物語の冒頭で、主人公のリック・デッカートは、朝食後に自分の羊の世話のために屋上のドームつき牧場に上がる。

もちろん、ここに飼われた動物たちの中にも、電子回路を内蔵した模造品は、きっと何頭かいるはずだ。隣人たちが彼の羊の動きに目を光らせたことがないように、リックも、いうまでもなく、そんな問題によけいな鼻を突っこみはしない。それ以上の礼儀に反した行為はないからである。「おたくの羊は本物ですか?」とたずねたりするのは、相手の市民の歯や毛髪や内臓が本物かどうかを質問するより、もっとはなはだしい無作法とされているのだ。

彼が飼育している羊は電気羊だ。

そして、彼は生きている動物を飼うことを願い、殖民惑星から逃亡し指名手配された8人のアンドロイドを始末する仕事に出るのだ。

新しいネクサス6型のアンドロイドは人間と一見区別がつかないほど精巧で人工の知能と自意識を持つ。人間とアンドロイドの区別は微妙で難しい。人間をアンドロイドと誤判定する可能性や、逆にアンドロイドを人間と判定する可能性も、たびたび指摘され、物語に不安定さをもたらす。測定手法は、感情移入度テストといい、標準として定められた質問に対して生体に現れる反応を記録して、人間ならあると想定される共感による反応が正しく出るかどうかを調べる機械なのだ。生体反応はアンドロイドなら組み込むことができるし、人間であっても、共感度が低ければ正常値からはずれてくる。

画像3

ところで、自分がアンドロイドだと認識していないアンドロイドが何人も登場する。偽の記憶を植えつけられて自分を人間だと信じて疑わないアンドロイドがいるのだ。同僚や上司でさえ、アンドロイドである可能性もあり、実際に、そのようなアンドロイドに遭遇する。

そのような曖昧な状況の中で、すでに植民地惑星から逃亡し地球に侵入しているアンドロイドたちの罠もかろうじて潜り抜け、時に間一髪、殺されそうになりながらも、一人一人をしとめていくリック。

しかし、人間とほとんど区別のつかないアンドロイドを殺すことは人として許されることなのだろうか。本当の敵は誰なのだろうか。リックは、同じ賞金稼ぎのフィル・レッシュと出会う。リックも、そして本人でさえもフィルはアンドロイドかもしれないと疑うのだ。フィルの上司はアンドロイドだった。人間とアンドロイドとの境界が一層あいまいになり、悩み苦しむことになる。誰がアンドロイドで誰が人間か、そして、はたして自分は人間なのか、そもそも人間が人間としてあるのはどこに拠っているのか。

ここに生きるアンドロイドはアンドロイドとしてこの世界に否応なく放り込まれ、アンドロイドとしての苦しみと悩みの中で、自由を求め生きて、逃亡の果てに死んでいくのだ。

画像3

さて、この物語では、頭を放射能でやられてしまったとされる「ピンボケ」のイジドアももう一つの軸を作る。そのイジドアが頼るのは共感ボックスである。黒い箱についたハンドルを両手で握ると、荒れ果てた風景が広がる。

茶一色の荒れ果てた登り坂。ひからびた骸骨のような雑草が、太陽のないどんよりした空にむかって、ぬっと斜めに突き出ている。人間といえばいえるような姿が一つ、苦しげに山腹を登っていく。色あせ、形もさだかでないガウンをまとった老人で、その着衣は敵意を持つうつろな空からひっさらってきたもののように、わずかな部分をしか覆っていない。

イジドアは、次第に老人・マーサーと一体化し、同じように一体化した何人もの人と共通体験をする。息をきらし、乾いた砂漠の山を登り、いくつもの石を投げつけられるのだ。共感ボックスを通じて一体化した人々は実際に負傷する。

もう一つのイジドアの楽しみは、TVとラジオのショーだ。ホストのバスター・フレンドリーが人気者で、彼と美しい女優たちは、アドリブで繰り出す、気のきいた速射砲のようなジョークや警句を売り物にし、全地球と殖民惑星に向けて、ほぼ一日中、放映されている。

「石ころにあたるような、へまはしないさ」と、バスターはアマンダ・ウエルナー相手にまくしたてていた。「それに、山登りときまれば、ぼくならバドワイザー・ビールを二、三本、忘れずに持っていくねえ!」

このSF小説の主人公はデッカートでありイジドアであり、マーサーでありバスターである。しかし自由を求め生死の意味を問うアンドロイドもまた主人公である。共感と愛憎、嫉妬のうずまく人間の世界と、そこに侵略を試みる自由を求める共感なき機械の世界のせめぎあいであり、物語の軸は「受苦」と「共感」である。

砂漠をさまよい、石を投げられ、それでも歩いていく。物語りの後半で、バスターにより、それが虚像であることが明かされる。しかし、むしろ、トイレの落書きやチープな映画、そして、そのような中に神は現れ、人を癒し、救うのだ。

「わしはたったいま、きみを墓穴世界から救い上げた。そしてこれからも、きみが弱音を吐いてやめるというまで、それをつづけていく。だが、きみはもうわしを捜し求めるのをやめなくてはいかんよ。わしのほうでは、決してきみを捜し求めることをやめはせんのだから。」

リックは、サン・フランシスコから北に向かう。無人の荒野をさまようなか、自身が石を投げられ負傷する体験をする。そして、乾いた砂漠の荒地に生命を見つけ、自分のいた世界に返ってくる。しかし、砂漠から持ち帰ったカエルは...。

画像1

リックもイジドアも、ここに生きるアンドロイドたちも、あなた自身であり、私自身であることに気付くであろう。

物語りの最後のシーンが印象的である。どんなにひどい世界でも、ありふれた、ばかばかしいほどにいとおしい、そんな日常の中に人間の生活があり、救いがあるのだ、と。


引用はすべて、昭和52年発行、朝倉久志訳のハヤカワ文庫版から。

関連 note 記事

UBIK:現実に現実をもたらすもの
VALIS:生命の本質としての情報
テレポートされざる者:現実は、現実という名の幻想なのか


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?