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現実は、現実という名の幻想なのか P. K. Dick "テレポートされざる者"

魅力的なタイトルではないか。原文のタイトルは "The Unteleported Man" とそっけない。

新幹線で東京から京都に行くのと、東京から歩いて京都に行くのと違うことはあるだろうか。そんなことを考える人はいないだろう。新幹線で行って京都の自宅に着いたら、いつものちっこい三階建ての家で妻とワインが待っている、歩いて京都に着いてみたら、そこは戦争で焼け野原になっていて焼けた木材の残骸しか残っていない。そんなことはないだろう。

しかし、厳密に言うと、同じ京都という街であっても、いつも同じわけではない。

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いつのまにか昔あった店はなくなり、新しい馴染みの店ができ、知っている街角も変わってしまった。瀟洒なイタリアンレストラン、数年前にそこに何が建っていたのか思い出すこともできない。

あたりまえである。私の意思とは別に常に変化しているのである。東京駅なんかはいつ行ったって工事中である。しかし、なぜ私たちは、そこを京都だと、あるいは東京だと、認識できるのだろうか。

何より、自分が変わっているのである。

私は私だとなぜ確信できるのだろうか。私という物理的な実体は常に変化している。古くなった細胞は死んでしまい体から離れ、新しい分子が取り込まれて置き換わっていく。昔の写真を見て鏡を見よ。しかし、私は依然として私である。

万物すべて、変わっていく。しかし私たちには、あるものはあるものとして、ある場所はある場所として、ある人はある人として統一感を持って認識をすることができる。

不思議ではないか。

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物語の最後、主人公のラクマエル・ベン・アップルボームはUNの最終兵器のタイム・ワープ装置で時間を巻き戻して、24光年も遠くのフォーマルハウト系第九惑星「鯨の口」へ旅立つ前の時点に戻る。そして、そのときに考えるのである。

「鯨の口」について知らなければならないことは、もう、なにもない。自分はそこへ行き、そのすべてを眼にしたのだから。
しかし、ほんとうにそうだったのだろうか。
「おれが見たものといえば」彼はゆっくりとことばを口に出した。「パラワールドに次ぐパラワールドばかりだった」背筋が寒くなるような感じを覚えながら、彼は気づいたー自分はまだ、どれが現実であるかわかっていないのだ。

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天才科学者と狂気の独裁者が編み出した周到に用意された緻密な作戦なのか、それとも登場人物全員のそれぞれの編み出す幻想なのか。それとも、錯綜する現実のパラレルワールドなのか。敵は、人間なのか、水生頭足類のマツダストなのか、それとも精密機械のシミュレイクラなのか。かつてはマットソンの愛人だったがいまではラクマエルの愛人となっているとされるフレイア・ホルムは、結局何者なのか。錯綜するプロットは脈絡がないようで、緻密に計算されているようにも見える。読み返すたびに、物語の断片同士がつながりあう。しかし、それは私たち読者の心が写されただけなのかもしれない。

少し長くなるがまた引用しよう。

たいへんな努力を払って、テオ・フェリーは、やっとの思いで本を閉じた。活字の印刷されたページが、視界から消えた・・・そのとたん、腕にもと通りの力がよみがえってきた。意思の力がふたたび活動を開始した。即座に立ち上がると、彼は本を投げ捨てた。それは、激しく地面に当たって、ページがぱたぱたとはためいた。テオ・フェリーは、さっと本のうえに飛び乗ると、靴の踵で踏みしだいたーそれは、生き物のような、断末魔の金切り声をふりしぼったが、やがて、完全に沈黙してしまった。
生きていたのだ、と彼は思った。異形の生命体だ。してみると、それが、彼の行動に影響を及ぼしていたことになんの不思議もない。あのページには何も書かれてなどいなかったのだー結局のところ、あれは、本などではなかったのだ。リューポフが用いていたものと思われる、ガニメデ産のいとわしい鏡状の生命体のひとつなのだろう。それは、ひとの考えていることを反射して見せる機能を持っている。うう。彼は嫌悪のあまり、たじろいだ。もう少しでやられるところだった。


ところで、この本には、欠落箇所が3箇所ある。それぞれ、1ページか2ページ、あるいは数行かもしれない、それらの欠落箇所の前後は、つながっているような飛んでしまっているようで、単純に行間を埋めることはできない。意図されたものなのだろうか。偶然か、あるいは単純な紛失なのだろうか。

しかし、そもそも、書かれたものの背後には、膨大な書かれなかったものがあるはずではないか。

すでに破綻している物語の中の欠落箇所は、いっそうミステリアスな雰囲気を作り、この物語の魅力をさらに高める働きをしている。

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さて、現実が共同幻想でしかないならば、複数のパラワールドの中でさまようしかないならば、誰かが保証する現実しか信じることができないならば、もう一度、出発地点に戻って旅をやり直しても、別のパラワールドの中をさまようだけだろう。本当なのだろうか。

では、現実は現実としてあったとして、私が生まれる前に現実はあったのだろうか。私が死んだあとに現実はあるのだろうか。誰にとっての現実なのだろうか。

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誰も答えは持っていない。自分が生きている、そして、私が関わっている人たち、私が愛する人も、自分と同じように生きているという確信だけを持っている。そして、主人公とともに翻弄され夢中になってめくるページを力をふりしぼって閉じ、まわりを見回してみると、ほっとするとともに気付くのである。

この現実の世界は、ここに描かれている世界のように矛盾に満ちた不条理な世界であり、その中で生き抜いていくしかないのだ、と。

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