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磯野 真穂「他者と生きる」

「他者」との出会いによって生じる緊張の中で、試行錯誤しながら「他者」との関係を積極的に築き、その関係性の中で立ち現れる新たな「自分」と新たな「他者」を受け入れ生きていく、換言すると「他者ととも生きていくこと」。それが豊かに「自分らしく生きる」ことにつながるのだろう。確かにそうだ。そんなことを考えながら、「他者と生きる」を読了した。

先週、高嶋さん(*1)の Facebook への投稿で本書を知り、面白そうだったので早速購入して読んでみたのだが、この何年かあれこれ考えていたことと呼応するし、私にとって新しい視点も多々あり、メモと抜き書きをびっしりとりながら一気に読み終えた。

本書の構成は、第一部と第二部そして最終章の3部からなり、それぞれの部だけ読んでもそれぞれの論点について丁寧に書いてある。

第1章から第4章からなる第一部は「リスクの手触り」と題し、アマゾンの民のアチェ族やカナダ北西部の狩猟採集民ヘアーの事例を導入に、現代日本私たちと対比しながらリスクを人がどう感じるかを論じる。さらに、心房細動のフィールドワークの知見から医療の現場でのコミュニケーションの在り方と、予防医学の展開と背景を、それぞれ深堀することで、現代におけるリスクの捉え方と想像力とレトリックの働きについて解き明かす。

以上の知見をCOVID-19のパンデミックで私たちが経験したコミュニケーションの状況にあてはめ、公文書や報道を参照しながら、どのようにリスクの実感が醸造されてきたのか、ごく最近の記憶に新しい話でもあり、とてもわかりやすい。

第5章から第7章の第二部は、病や死に直面したときに現れる言葉について事例を引き、その中から得られた知見から、現代日本で声高に強調される「自分らしさ」「自分とは何か」とは何だろうか切り込んでいく。そして第7章で現代社会で人間とは何かについて人類学の研究成果や哲学を手引きに考察していく。その中で、「統計的人間観」「個人主義的人間観」「関係論的人間観」の3種類の人間観が示される。

一見、対立する観点とおもえる「統計的人間観」(社会の中の平均的な人・数で勘定される人)と「個人主義的人間観」(かけがえのない私、かけがえのないあなた・数で勘定できない人)とが、実は手を組んで誰も抗えない倫理と道徳を作り出し、さまざまな局面で私たちをしばる、という著者の論点は非常に刺激的だ。

だから、その解として、両者のバランスをとる、比重を変える、あるいはゼロイチで選択する、ということではなく、関係論的人間観に目を向けるべきだ、という点は納得できるところであろう。

以上のように、人類学の知見をうまく応用しながら、自分とは何者か、人間はどのような存在か、とを存分に解き明かすことによって、自分と他者との「関係性」の生成と変化に注目すべきだという視座が得られる。そのうえで最終章では、「他者」の発見としての「出会い」を解きほぐし「共在の枠」と「投射」という概念を導入し、「他者と生きる」というのはどういうことか、すなわち「自分らしく生きる」というのはどういうことなのか、論が進められる。

「共在の枠」とは出会いの時点で相互行為の規則であり、出会いの経験を形作る。「共在の枠」を共有する範囲が広ければ広いほど、相手との間の関係への影響は少ないだろう。「共在の枠」の共通点が狭ければ、あるときには相手との関係が壊れることもあれば、それによって関係が深まることもあるかもしれない。

「投射」とは、そんな現在の「共在の枠」によって変化していく未来に向かって「共在の枠」を変化させていく構えのことだ。ここでは、試行錯誤を通じて相手との関係性と「共在の枠」を変化させ、その過程で変化していく自分と他者を積極的に受容する、そんな未来を自ら引き受ける、ということになるのだろう。

つまり、他者と生きる、というのは、出会った他者とともに生きていく、と言い換えられる。考えてみれば、出会った他者と関係を新たにしながら生きていくからこそ、自分があり他者があるわけだ。

ところで、最終章は「生成される時間」と題してあり、関係論的人間観における時間の概念が提示される。時間は一本の均質で密度の同じ流れではなく、垂直方向に、偶然と必然の軸を持つ厚みのあるものだと考え、人は、その中を蛇行するように時間と出来事を体験する、とする。

私は、個人の経験する時間の密度の濃淡、として簡単に考えていたので、偶然と必然という軸を持ち込む考え方は「ああ、なるほど」と膝を打つところがあった。また、「他者との出会い」という節目・起点の導入についても同様だ。絶え間ない他者との出会いによって自分が、そして自分の人生が形作られ、そのなかで時間を経験するのだ、という考えがしみこむように受け取れた。

そのほか、いろいろ知らないことや考えてもいなかった視点が次々に現れるので、とても楽しく読めた。ここには書ききらないが、将来、何度も振り返ることになるだろう。

1つだけここに書いておくとすると、マリリン・ストラザーンの「贈与のジェンダー」は興味深く、今年中に読んでみようと思っている。専門家にとっても難解だということなので恐れおののいているところではあるが。。。人の中には社会がすでに織り込まれていて関係性の中で行為する、そのようにして「人」が現れると考え、しかし関係性の中で生まれ統合される「個人」という概念までも否定するという。人という概念を解体してしまうという徹底した思想は、とても興味がある。


それにしても一流の学者の書く本は読みやすい。論文の形式が身についているからだろう、各章、各部、本全体のそれぞれで、冒頭に前後の関係と論点および論の構成を述べ、自身の研究も含め広く過去の関連論文を引き、実例を検討しながら自分の論点を述べ、結論に結び付ける。脚注でリファレンス文献と注記をまとめてあるのも、興味を引いた点を深堀する手引きになるのでうれしいところだ。個人の感情吐露や、関係ないけど言っておきたいこと、コラム、そんなパートがないのも私には好ましい。

一般向けの本なのでスコープが広く細部の論証についてはこだわらず省略しがちだが、そのバランスがいいので読みやすい。

ただ、私の好みから言うと最終章はもっと幅をとって丁寧に考察を書いてほしいと思った。このテーマで著者が書きたいことを書きたいように書くには新書の枠では狭すぎたのかもしれないと想像してしまった。

エスノグラフィや文化人類学的視点は少々流行っているかもしれない。最近でも、小川さやか著「チョンキンマンションのボスは知っている」を読んで、目からうろこで楽しく読んだ。内容は異なるのに、本書「他者との出会い」となんとなく共通の雰囲気、テイストを感じた。文体や論の進め方が近いから、というのもあるし、新しい視点や発見・知見との出会いが次々とあるからだろう。


さて、こうして改めて考えると、このような本を高嶋さんのFacebook投稿で目にして知り読んだこと、たまたま読了できる時間を持てたことも、偶然による他者(=本書)との出会いであり、このように記事を書いていることは、私らしく他者(=本書)と生きていくことの実践の一部である。

他者との出会いは、出会ってしまった自分にとって、あるいは出会った相手にとっても、偶然によるとしか言いようがなく、出会った時点での偶然の領域に自分はおかれてしまうわけだ。

私が思うに、他者が自分と関わりが深いほど、そして分かり合えない他者であるほど、偶然性の深い領域におかれるはずだ。

分かり合えない他者とは、その他者と関わったときにその結果としての関係性の変化や自己の変化が予測がつかないということだ。また、その他者と自分の関わり合いが深いということは、その予測がつかない関係性の変化や自分や他者の変化に重大な影響を及ぼすからだ。

100%分かり合えている人というのは、ありえないが、そんな人がいたと仮定しよう。その場合は必然性側の深い領域に位置するはずだ。つまり、相手との関わりあいによる結果は意外なことはは何もなく、自分も相手も今のまま、変化がおきない。

相手も自分もお互いに認識できない者、無関心な者は他者ではない。そもそも関係性を築くことができないからだ。一般的に宇宙人との出会いはそういうものであるのではないだろうか。共在の枠が成立する宇宙人がいるとするならば、それは私自身だ。宇宙で私たちが探そうとしている知的生命体とは、実は私たち自身なのだ、と喝破したのはレムだ。

「他者」というのは怖いものだ。ここで言う「他者」とは「まったくの他人」に限らない。相手がよく知った人であっても、私の知らないうちに、どこかで誰かに大きな影響を受けて別人のようになっている場合もあるかもしれない。病気や事故にあって考え方が大きく変わっている場合もあるだろう。「他者」は新しいモノであってもかまわないし、他者性は自分も相手も周りのモノも変わらなくても、とりまく環境が変わるだけで生じることだってある。

それどころか、自分が変わることでも他者になりえる。たとえば、自分が末期癌であることが家族とともに告知されたとする。それから以降の自分と一番近しい家族との間の会話には新たな緊張が生まれこれまで何気なく話していた言葉も相手の感情を害するかもしれないし、何気ない動作がどんな風に相手に作用するかわからなくなるだろう。だから慎重に言葉を選びながら話すようになるかもしれない。務めて明るくふるまうようになるかもしれない。そのことは、自分の中に、自分と家族の間の関係性の中において予測しがたい「他者」が生じたと考えることができる。


日々の生活は、偶然に出会う他者(人だけでなくモノや出来事、環境の変化など)による揺さぶりとそれを必然の領域に戻そうとする試行錯誤と努力の繰り返しであり、そう考えるとその揺さぶりと努力の幅が大きいほど、濃密な体験をし「自分らしく」生きる感覚になるはずだ。また、そのような試行錯誤と努力の中に自由を感じることができるだろう。

新たな出会い、偶然、そして自由。

いったい自分とは何者だろうか。統一感を持った一人の自分として私たちが感じる自分は、自分という概念があって得られるものなのだろうか。違う世間に生きる人はまったく違った感じ方をしているのだろうか。この世界にわけもわからずいつの間にか放り込まれて生きている自分だと思っている自分がいて、他者とともに生き、そしていずれは死んで土に還る。


私たちはどこから来てどこに行くのだろうか。


■注記

(*1) 高嶋さんは、以前に別の読書会で知り合った方で、「影響力の法則」を日本語に翻訳したコンサルタント(インフルエンス·テクノロジーLLC)として、また、大学の非常勤講師としても幅広く活躍されている方だ。

高嶋さんに紹介された本「働くということ」、著書「みるみる味方が増える」について以前に記事にしたことがある。

■ 関連 note 記事

自分とは何か、感情を失った人間と感情を持たない兵器が、過去と未来のせめぎ合いの中で存在をかけて戦う神林長平のSF小説。感情と時間軸の考察が面白い。

まぁ、学術的な本書「他者と生きる」のような理論とはレベルが違うが、考える視点に共通の部分もある、と強引に考えることができる。

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