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黒井千次「働くということ」

なかなか面白そうな読書会に誘われたので、さっそくテーマの黒井千次著「働くということ」を購入して読み終えた。1982年に書かれた本で、私が1991年にPanasonicに入社するより9年も前の本だ。

著者の15年のメーカー勤務の経験を綴りながら、仕事とはなんだろうか、働くってなんだろう、ということを考察し掘り下げる名著だ。

私は、バブル入社で何の努力も意識もなくボヤっと就職し、それでもグローバル化の荒波のなかで、しかも生き馬の目を抜く携帯電話の分野で自分なりに必死に泳いで世の中を渡ってきた。とはいえ、とても運よくラッキーなめぐり合わせが度々重なることで、こんな私でもなんだか楽に過ごしてこれた。奇跡といってよい。ほんとうに皆さんには感謝しかない。そんな私がすっかり忘れてしまって、あちこちに置いてけぼりにしてきてしまった大切なことを思い出させられる、そんな本だった。

思えば遠くに来たもんだ、と思いながらあちこち抜き書きしながら読み終えた。

思い出されるのは、20年以上も前、大阪は門真で働いていたときに巡り合った上司や先輩たち、そしてともに働いた同僚たち。50名近くの顔が思い浮かんだ。みんな、この本を読んだらどう思うだろう。「こんなん当たり前のことしか書いてないやん」とパラパラパラとページをくって放り出すだろうか。

そして、私の父母の世代・戦中生まれで戦後の復興と高度経済成長と石油ショックを生き抜いた人々が言いそうなのは「働くってなんだろう、なんて呑気だねぇ。俺たちなんか食うために必死で働かなければ生きられなかったから、働くということはどういうことか、なんて考えているヒマもなかったよ。」

そんな、散り散りの思いのまま、読み終えた。

しかし、働くということ・労働が私達1人ひとりにとって重要な要素であり、ただ単に「せざるを得ないからする」「食べるためにする」、それだけのことではないことは多くの人が納得するところだろうし、それは、およそ労働が発生してから、世界のどの地域のどの階層・役割の人でも共通する部分があるのではないかと思われる。そんなことを著者は言いたいのだろう。

それは、本書の言葉では「自己表現の場としての労働と捉える」ことができ、そして一番最後の文章に、こう書かれている。

働くということは生きるということであり、生きるとは、結局、人間とはなにかを考え続けることに他ならない。p.180

せっかちな人はここだけ読んで「そりゃそうだよね、だから俺は悩んでいるんじゃないか」と本を放り出してしまうかもしれない。本書には、処方箋は書かれていない。しかし、著者の発見の過程を自分自身の今の姿や、過去の経験と照らし合わせて考えることを促すので、そこが大事なところであるように思われる。「だから私はこう働く」換言すれば、「だから私はこう生きる」ということを、自ら問いかけ自ら答えを求めよう、ということだと思う。

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高嶋さん(*1)がファシリテータを務めた先週土曜日の午後の読書会は、ZOOMで開催され、3時間ほど、20人あまりの人が参加した。意見や感想を交換しあった中で印象的だったのは、やはり、人によって受け取り方がだいぶん違う、ということだった。

私と同じかちょい上の世代で、メーカー勤務経験のある人達は「なるほどまさに自分が経験してきたことだし、言っていることはよくわかるけど、今はだいぶん事情が違うよね」という読後感だったようだ。しかし、学校の先生や自営の方々にはピンとこなかった部分も多かったようだ。

たとえば、本書にある「仕事が中に入ってくる」という感覚についてだ。

「仕事が自分の外にある」というのは次のようなことだと思う。言われたことを決められたとおりにだけこなしているという感覚だ。つまり、片付けないといけない「単なる仕事」が私の前にあるのでそれをやっているという感覚、文字どおり、仕事が外にあるのだ。

「仕事が自分の中にある」というのは、自分が主体的にこなしている感覚だ。「私がやるからこそ、この仕事はこれほど出来栄えがよく、人より速くそして正確にできている」という感覚だ。言われたこと決められていること、それを守るのは当然として、例えば後工程や、最終製品のことまで十分に理解して、自分で工夫しながら仕事を仕上げるという感覚。このとき仕事は、私に与えられたものではなく、私に任されたものとなり、文字通り、仕事が自分の中にある、と言える。

企業から独立して、一国一城の主になった人にとってみたら、まず仕事が外にある状態はあり得ないだろうし、自分の中にあるというのが自然な状態だから「仕事が中に入ってくる」なんて感覚はそもそも感じたこともないだろう。

しかし、当たり前のように強い当事者意識をもって仕事をしていても、その仕事がうまく行かない時、あるいは大きな失敗をしたとき、初めて、自分の中にある仕事を強く意識し、そこで初めて「ああ、私の中にはこんなに大事な仕事がある」と意識する、そんなことがあるのではないだろうか。「仕事が中に入ってくると思ったときはどんな時ですか?」という問いかけに対して学校の先生が、困惑しながら言葉を探しながら語ってくれたご自身のエピソードを聞きながら、そんなことを考えた。

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最初、仕事が中に入ってくる、ということを考えたときに、「責任の範囲の意識-目の前に与えられた目標だけでなく、会社、あるいは社会、人類といったスケールでの目的を考えて責任ある仕事をしているのか」ということ、「当事者意識だよね」と簡単に考えた。また、「仕事が楽しく感じられることではないか」「仕事にやりがいを感じるということではないか」と発言された方もいたように思う。

たとえば、ある人の仕事は、次のようなものかもしれない。自分の責任はミスなく期限までに仕上げるという程度の限定的で、例えば最終のアウトプットが失敗作であっても、「それは設計が悪いからでしょ」「マーケティングの失敗だよね」「そんな仕事を私にさせるのが悪い」などというように他責にできるようなそんな仕事だ。

また、他のある人が同じ仕事内容で同じようにアウトプットが失敗作だったとしよう。その人は「なぜ、設計が悪いと気が付いていたのに、そこで声を上げなかったのだろう。」「後工程のことを考えて、もう少しここをこうして仕上げておけばもっと歩留まりよく、いい商売になっただろうに」「一消費者として疑問に思うところを言うべきだった」「この仕事を私にさせても意味がないと感じていたのに、しっかりと話し合わなかった」など、自分事として考え、自分も責任の一端を負っていることを意識し、次の仕事に生かしていく。

前者が仕事が外にある人、後者が仕事が中にはいった人、そんなようなことではないかと、いったんは考えた。

よく例として引き合いに出されるのは、3人のレンガ職人の話である。P.F.ドラッカーが著作で説いたのはあまりに有名だ。記憶を頼りにして、少しネットで調べてみて、自分の理解しているところを織り込むと次のような話だろう。

レンガを積んでいるレンガ職人に何をしているのか訊いてみた。
一人目は「レンガを積んでいる、これで家族を養っているのさ」と答えた。
二人目は「壁を作っているのさ、立派で丈夫な壁ができるよ」と答えた。
三人目は「教会を建てているんだ、教会が完成すれば多くの人の魂が救われるだろうね」と答えた。

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しかし、このようなは話は「働くとは何か」という問いに対して一見深く関係しているように思われるが、改めて考え直してみると、やはり、違う観点のように思った。3人の誰であっても、腕の悪いレンガ職人だったら、やっぱりダメだし、1人目の人だってレンガ積みの技能を磨いて、強固で崩れない壁をしっかりと構成できるのならそれでよいだろう。家族にとってヒーローかもしれない。3人目の人だって、その教会が免罪符を売って儲けているだけで魂を救うことなど興味がないのだ、という噂話を Clubhouse で聴いたときから気がそぞろになって仕事に身が入らないようでは、腕がよくってもやっぱり困る。

仕事に対するモチベーションが大きな視点であっても小さな視点であってもいいでのではないだろうか。もちろん、本人の社会的な影響力に応じた視点であることが望ましいと思うし、しかし、そうでなくっても、個人個人がどんな視点で自分の仕事をどう考えようと、それはいい悪いの問題ではないし、そして、仕事を自分のものとして捉えられているかどうかとは別の問題だろう、と私は思う。

むしろ、自分の仕事ってなんだろうと考えるときに、そのような視点を持ち込むのはかえってよくないのではないだろか。

組織にとっては、変化が速く激しい世の中に永続的に貢献する(=利益をあげる)ために、管理のコストをいかに下げるか、従業員のアウトプットをいかに高めるか、追求するのに容赦はない。だから、我社の従業員はどんな目的意識も持ってほしいか、どんな仕事観を持ってほしいか、働くとはどういうことと考えてほしいか、ということを考えるのは余念がないし、徹底するためにあの手この手を打ってくる。また、悩んでいる人に、「成功している人はこう考えていますよ」とばかりに、口当たりがよく上司に受けそうな目的意識や仕事観を売り込んでくる人も多い。

そのうえで「あなたはどう考えるの?」「あなたの人生の問題なんですよ?」「あなたは働くことを通じて何を社会にアウトプットするの?」と責めたてられるように問われると、そうした仕事観を持てずにいる自分がなんだか小さく思われて、実際に腕の立つ技術者で、自分ごととなっている仕事に誇りを持ち、愛する家族のために、普段はいきいきと働いているような人でも悩んでしまうかもしれない。

大きい視点からのものの見方のほうが、より広い範囲のより多くの人から協力を得やすいし、より多くの人の幸せに貢献し、社会を変革する源にだってなる。そして、常に自分に都合のよい視点からものを見ることで個人のモチベーションを保つこともできる。しかし、それが、人類にとって、国にとって、社会や地域にとって、家族にとって、あるいは自分にとってよい結果をもたらすか、というとそれは必ずしもそうではないし、むしろ大きな問題を引き起こすこともある。特に、長い時間軸の中で考えると自分の関わった仕事が結果として社会に貢献したかどうかそれとも害悪を引き起こしたのか、それともまったく関係なかったのか、むしろ、偶然の作用のほうが大きいのではないかとさえ思われる。

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あらためて働くということを考えてみれば、自然や社会、あるいは周囲の人やものに働きかけることによって、自分が、あるいは自分たちが、そして人類が、生活の場を広げ、より多様な人々がより楽により豊かに暮らしていけるようにしていく営みであり、私達一人ひとりが持っている自然な活動だと広く捉えることができる。

自分が(自分たちが)生きる場所を作るということであり、活躍できる場所を作るということだ。

そのように考えてみると、私達が、自分の仕事として仕事にいきいきと主体的に取り組むには、目的意識の大きさや責任の範囲の広さや影響力の大きさや広さよりも、むしろ、その仕事の中に自分が自由にできる範囲をどれだけいれることができるか、そんなことが大事なのではないかと思い至った。つまりは、「自分がどれだけ活躍できるかどうか」あるいは「活躍できているという実感が持ててているかどうか」ということだろう。本書に書かれている働くことは自己表現である、というのはそう考えると納得のいくところではないだろうか。

働くということ、仕事ということ、その意味や意義、目的を考えるときに、それはやはり人生と同様に、きわめて個人的なものとなるだろう。それは対象として外において客観的に考えられるものというより、自らとともに内において主体的に生きることなのだから。

しかし抽象的に考えてみることも悪いことではない。考えることが生きることと不可分な人間の営みである以上、よりよく考えることはよりよく生きることにつながると思われるからだ。

そういう意味では大企業のサラリーマンは幸いなのかもしれない。仕事が外におかれる日常を体験し、あるいは体験させられ、「仕事ってなんだろう?」「労働とは?」と、そのように立ち止まって考える贅沢を与えられているのだから。



■関連 note 記事

そういえば、と、去年読んだ西村佳哲著「自分の仕事を作る」をぱらっと見直してみた。こちらもかなりおススメだ。


■注

(*1) 高嶋さんは、以前に別の読書会で知り合った方で、「影響力の法則」を日本語に翻訳したコンサルタント(インフルエンス·テクノロジーLLC)として、また、大学の非常勤講師としても幅広く活躍されている方だ。

私のnoteでも著書の「みるみる味方が増える たった一つの法則」を紹介したことがある。



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