見出し画像

足助八幡宮から津島神社へ

宇佐神宮については、結構調べた。

宇佐神宮のご祭神はどなた?
宇佐信仰から八幡信仰へ(長文)
宇佐信仰から八幡信仰へ(略記)
宇佐氏、辛島氏、大神氏
宇佐神宮の阿加流比売命(赤留姫命)
宇佐神宮関連神社

この研究が『足助八幡宮縁起』の読解に役立った。

原文&現代語訳『足助八幡宮縁起』(上・下)について
原文&現代語訳『足助八幡宮縁起』(上)   
原文&現代語訳『足助八幡宮縁起』(下)
『参河国名所図絵』(下・賀茂郡)「八幡社」等

たとえば、八幡神については、『足助八幡宮縁起』には次のようにある。

欽明天皇32年辛卯神護5年正月11日、豊前国宇佐郡菱潟の池の辺、大尻と云ふ山の奥に、鍛冶する声聞こへければ、大神の此義(これよし)、3年、五穀を絶ちて、祈念する。3歳の小児の形にて、竹の葉の上に立て、託宣して曰く、「我は是天照大神の末孫・仁王16代帝応神天皇の霊神也。名は護国霊験威力神通自在王𦬇」と云ふと有り。(『足助八幡宮縁起』)

宇佐神宮について結構調べた私なら、
・豊前国宇佐郡菱潟の池の辺→豊前国宇佐郡の菱形池の辺
・大尻と云ふ山の奥→小倉山の麓(大尻は大元の誤り?)
・鍛冶する声聞こへければ→人間とは思えない姿の鍛冶師が現れたので
・大神の此義(これよし)→大神比義(おおがのひき)
と書くけど、本社は吉田家の指導で由緒を書き換え、分社に書き換え前の由緒が残っていることもあるので、どちらが正しいかは検討を要する。

放生会の斉会の秋の天には、三五夜中の新月、色清く、倍従祭祀の春の地には、華飛如錦濃粧ぞと、此処に見へ知られたり。(『足助八幡宮縁起』)

八幡宮(宇佐神宮等)の放生会は「三五夜中の満月」、いわゆる「中秋の名月」の日に行われるので、「三五夜中の新月」というのは有りえない。翻刻ミスだと思う。(「色清く」って、新月の色は黒だろ!)著者は「三五夜中秋の満月」と書きたかったのでは?

「日本三大八幡」の筥崎宮については調べてないが、それでも「従祭祀」が「従祭祀」の間違いであることは容易に察しが付く。文章の読解で一番やっかいなのが『太閤様軍記』のようなオールひらがなで、脳内で仮名交じり文に変換しないと解読できない。次にやっかいなのが誤字、当て字。現代の表記が分かれば辞書でひけるが、間違った字だと沼にはまる。「我は是天照大神の末孫・仁王16代帝応神天皇の霊神也」と言われて、「仁王」を「におう」と読んでしまうと読解できない。仁王→じんおう→人皇と察せられれば、辞書をひくまでもない(それにしても、「天照大神の末孫」って欽明天皇では? これでは「応神天皇までが天照大神の子孫」になってしまうぞ。)

「春の地」とあるから、2月の初卯祭だろう。(八幡大神が宇佐に示現したのは旧暦2月初卯の日。)「華飛如錦濃粧ぞ」の出典は、『和漢朗詠集』の
   花開如散錦   源英明
  花飛如錦幾濃粧 (花飛で錦の如く幾く濃粧ぞ。)
  織者春風未疊箱 (織るは春風未だ箱を畳まず。)
ですね。『参河国名所図絵』には「華飛び如錦濃き粧ぞ」とあるけど、「濃粧」は「濃粧(のうしょう)」であって、「濃き粧」としない方が漢文らしくていいと思うぞ。(「春風」は「はるかぜ」ではなく、「しゅんぷう」と読みたい。)1部分だけ書き下すのも変。どうせなら「華飛んで錦の如く、濃き粧ひぞ」として欲しいぞ。(いずせにせよ、初卯祭の時期に桜吹雪はありえないかと。)

画像1

■津島神社文書(つしまじんじゃもんじょ)
 本文書は、津島神社の社家29家・社僧10坊のうちの神主氷室家と村主勾当太夫家のものを主体とし、服部乙若太夫家・氷室光太夫家のものの一部と昭和6年に名古屋税務監督局倉庫から発見されたものなど神社に寄贈収蔵されたものから成る。全体の概要は以下の通りである。
表装分(掛軸装・額装)、縁起由緒編 162件(192点)・・・
https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/shoseki/kensitei/0702.html

津島神社について調べたいが・・・
足助八幡宮については『足助八幡宮縁起』の1件(1点)を読めばいいが、
津島神社は、縁起由緒編の数が162件(192点)!!!
読むだけでも大変だ。

ちなみに私の「想像」は、「居森社と国玉神社を津島(尾張国海部郡藤浪郷)で合体させたのが津島神社」です。私は偽書『浪合記』を読んだくらいで、『縁起』の類を読んでいないので、「仮説」すら立てられません。
「直感」では、津島神社の境内社の中で重要なのは、次の神社です。

居森社/柏樹社    祭神:建速須佐之男命
国玉神社/彌五郎殿社 祭神:大穴牟遅命/武内宿禰命
若宮社        祭神:事代主命→尹良親王

居森社は元津島とでも呼ぶべき小祠。式内社ではない。
この小祠を大きくしたのが社家(四家七苗字)の堀田氏と大橋氏。
堀田氏は彌五郎殿社と若宮社(祭神は大穴牟遅命の子・事代主命)を合祀。
これに負けじと大橋氏は天皇家と結びついた(系図を作成した)。
堀田氏は社家より武家を選んだ。
すかさず大橋氏は、若宮社の祭神を宗良親王の子・尹良親王に変えた。
以上が私の頭の中のストーリー。ようするに、津島神社の発展は、四家七苗字、特に「堀田 vs 大橋」の競い合い(寄進合戦)の賜物ではないかと妄想中。

 後醍醐天皇【天皇家】
   ├───宗良親王(信濃宮、大草宮、幸坂宮、尊澄法親王)
  二条為子   ├┬桜子姫【井嶋氏、井谷氏の祖】
         │ └尹良親王 (源尹良)
 井伊道政    │     ├─────────┬良王【大橋氏の祖】
 【井伊氏】   │ 琴姫【世良田氏】   ├良新 【津島神社初代宮司】
   ├─井伊重子(駿河姫)      └崎之宮(夭逝)
  三浦宗久の娘
 【駿河三浦氏】

 津島の大橋家(平貞盛の子孫)では、尹良親王の姉・桜子と結婚した大橋定省(津島神社を現在地に遷座した人)は、後醍醐天皇のひ孫・良王親王を奴野(ぬのや、布屋)城(愛知県津島市天王通り4丁目)に迎え入れ、末娘と結婚させ、生まれた神王丸を大橋家の養嗣子(大橋信吉の養子)として、奴野城の城主とし、姓を桓武平氏から後醍醐源氏に改めたとする。嫡男・良新には嫡子がいなかったので、氷室に住んでいた大橋貞元の子・定常を養嗣子とし、定常は「氷室」と称した。

                                      大橋定省【桓武平氏】
            ├─────┬信吉─源信重【後醍醐源氏の祖】
            │      ├貞元─定常
            │      └女子
 後醍醐天皇─宗良親王┬桜子      ├良新─小田井定常【氷室氏の祖】
             │           ├神王丸(信重)
             └尹良親王─良王親王

★吟行「津島神社 -西の八坂、東の津島-」
https://note.com/sz2020/n/n3e426aa4741f
★津島神社公式ホームページ
http://tsushimajinja.or.jp/
★津島市の歴史・文化遺産
https://www.tsushima-bunka.jp/

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。