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宇佐氏、辛島氏、大神氏

 織田信長は、家臣に九州の苗字を与えたという。
 太田牛一の『信長公記』の自筆本には、明智十兵衛尉光秀には「維任(いとう)日向守光秀」と名乗らせたとあるが、当の光秀は「惟任(これとう)日向守源光秀」と名乗り、改紋せず、明智氏の桔梗紋を使い続けた。苗字を変えるのは上司の命令であるので仕方ないが、「土岐明智」には愛着があり、家紋は変えなかったようだ。また、家臣に「明智」と名乗らせている。
 「惟任氏」は、「鎮西九党の1人」だというが、それは江戸時代の話で、それまで「惟任」と名乗っているのは、豊後国大野郡緒方郷の「大神惟任」だけであり、「惟任」は名前であって苗字ではない。さらに、この大神(おおが)氏は、大和国から宇佐神宮に派遣された大神(おおみわ)氏であり(大神(おおみわ)家は、神(みわ)家の宗家で、大神(おおが)氏は、大和国の大神(おおみわ)家の庶子家であり)、「大神」は九州の苗字ではない。

 ──宇佐神宮の宮司家である宇佐、辛島、大神家について調べてみよう!

(1)宇佐家


宇佐さんは、大分県に90人。宇佐市には少なく、大分県玖珠郡九重町に60人が住んでおられるという。

 鸕鶿草葺不合尊┬景行天皇        
        └神武天皇
            ‖─常津彦耳命
        菟狭津姫命       常世織姫命
高皇産霊尊─天三降 ‖           ‖─稚屋彦命(応神天皇)
       ‖─菟狭津彦命(宇佐国造)=常津彦耳命(宇佐国造)
      市杵島姫命(「宗像三女神」)

神武東遷:『日本書紀』によれば、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)は、日向国から宇佐国、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て大和国を征し、三輪神・大物主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正室として初代天皇「神日本磐余彦天皇(かみやまといはあれびこのすめらみこと)」(神武天皇)として即位したとする。
 また、立ち寄った宇佐国では、宇佐国造・菟狭津彦命の妻、もしくは、妹とされる菟狭津姫命を神祇担当の従臣・天種子命(中臣→藤原氏の祖・天児屋命の孫)に賜妻した。また、兄「五瀬命(いつせのみこと)」が難波国で矢を受け、傷が悪化して亡くなったとする。
 宇佐家の伝承によれば、菟狭津姫命が結婚したのは天種子命ではなく、神武天皇であり、常津彦耳命が生まれたという。衝撃的なのは、神武天皇&菟狭津姫命は安芸国で亡くなったということであり、墓は厳島の弥山だという。そして、神武天皇の意志を継いで東征したのが、神武天皇の兄・景行天皇であり、父をなくした常津彦耳命は伯父・菟狭津彦命の養子となって宇佐国造を継ぎ、越智宿禰の娘・常世織姫命と結婚して生まれたのが応神天皇だという。宇佐家は天皇家なのか?

【考察①】 神武天皇の兄が景行天皇というのは衝撃である。『日本書紀』の初期天皇は架空の人物で、実在した天皇は、
①神武天皇=崇神天皇以降の天皇説
②応神天皇以降の天皇説
があるが、宇佐家の伝承によれば、実在したのは神武天皇、そして次が景行天皇となる。つまり、『日本書紀』の天皇が架空の人物ではなく、全員実在するというのであれば、神武天皇~景行天皇の記事は畿内の日本国の記事であり、中国の書物の「倭の五王」の特定には、倭国王(北九州王朝の王)の系図と見比べないと無理ということになる。
【考察②】 『日本書紀』は神代と人代に分かれており、神代の記述は太古の高天原の話と思っていたが、実は神代は2世紀の倭国の話、人代は3世紀以降の日本国の話であろう。
【考察③】 宗像大社には「宗像の子は住吉で、孫が宇佐」という伝承があるが、宇佐家の伝承では「宗像(市杵島姫命)の子は宇佐国造(菟狭津彦命)で、ひ孫が宇佐(応神天皇)」と食い違っている。

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