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ドラマ「相棒」は時代劇

 先日、ドラマ『相棒』season22が最終回を迎えた。
 映画やアニメと比べ、ドラマ自体はあまり見ることが無い中、相棒はトップクラスに好きな作品であり、早く新たなシーズンが放送されることを願っている。

 2000年にプレシーズンが放送されてから、まさに今世紀を代表する刑事ドラマと言えるだろう。
 警察ものはドラマでも定番のジャンルだが、相棒が特異だったのは、登場人物「杉下右京」がいわゆる変人な点と僕は思っている。
 ともすれば熱血系あるいは組織人として描かれがちな警察官を、古典的な“名探偵”像に仕上げたのは、相棒の功績と思っている。

 同じくミステリドラマ『古畑任三郎』も、名探偵的(≒あまり警察官ぽくない)なキャラ造形がなされていた。
 だが、相棒では、事件解決だけでなく、(警察)組織内の情勢も描き続けているのが、両者の違いだろう。

 そんな相棒の大きな魅力として、先に触れたように杉下の存在感があるわけだ。紅茶とチェスなどが好きな英国紳士風の頭脳派。警視庁の警部。だが陸の孤島と呼ばれる「特命係」に独り在籍。
 左遷先として送り込まれた部下は、ことごとく彼の慇懃無礼さや冷静さに太刀打ちできず、退職していく。この事から、杉下右京は人材の墓場とまで噂されるのだった……。

 大まかにはこのような設定で、またしても送り込まれた部下の中から、退職せず、共に事件を捜査するようになる“相棒”が登場しだすというストーリー。杉下はそんな相棒にも、冷たいことが多々あった。

 そう、過去形だ。近頃の杉下は必ずしもそうではない。なるほど上司からのパワハラは社会的問題であり、フィクションといえども、あまり気持ちの良いものではないから、脚本の時点で削られているのかもしれない。
 だが、それにしても昨今の相棒は、ある種、「古典芸能」化しているように思っている。

 相棒の基本構成は、捜査権の無い特命係がひょんなことから、事件を嗅ぎつけ、興味を惹かれる。周囲の協力はさほど無い二人だが、天才・杉下の頭脳をもとに、捜査一課も知らない事件の最前線に。
 やがて推理を披露。開き直る犯人。いつもは冷静な杉下が怒鳴る(推理ゲームなどではなく、正義と真実の追及を描写)。エンディングへ。

 ざっとこんな感じ。これが概ね繰り返されている。まさに時代劇のようなもの。
 しかも、より古典芸能だなと思うのは、登場人物が限られている点。古畑(サスペンス)のように、視聴者が当初から犯人を知っているなら話は別だが、相棒の多くの物語はそうではなく、杉下らと共に視聴者も犯人を考える構成(ミステリ)なのだ。
 にも関わらず、そもそも容疑者が少ないことで、だいたい展開が知れている。ミステリとしてはこれはいかがなものか。
 ここから察せられるのは、驚くような推理、ではなく、僕達は「相棒らしい」王道展開がなぞられるのを楽しんでいるということだ。
 近頃、かつて登場した脇役や犯人が改めて登場する、という回も増えてきている。

 作家・内田康夫が原作のドラマ・映画「浅見光彦」シリーズの場合、フリールポライターである光彦が、当初容疑者になるも、実は兄が刑事局長であることが分かり、打って変わって担当刑事がごまをすりだす、というのが時代劇的エッセンスで、その前後はミステリで一貫している。

「杉下右京」役の水谷豊さんは、
かつて「浅見光彦」を演じたことも

 なお、現代劇として相棒に要求されているのは、時事性に他ならない。最終回とその前の回と連続してAIによるフェイク動画が犯行に用いられたり、今シーズンの第一話では怪しげな新興宗教団体への潜入があったり。まさしく、その時代時代を切り取っているのが分かる。
 
 また、相棒は、体制側(国家権力)にありつつ、特命係が爪弾き者であることで、政治家や警察上層部への“反体制”的描写も可能となるのだ。これは、視聴者層を広める意味でも有効である。
 時代劇だと、どうしても体制・反体制のいずれかになってしまう(『水戸黄門』は体制、『眠狂四郎』は反体制といった具合)。

 最後に余談だが「亀山薫」役の寺脇康文さんが既に60代ということに驚いた。確かに昔の映像を観返せば、月日の流れには気づくが、それにしても若々しい。

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