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空っぽのチョコは、優しく甘く美しい

3才を少し過ぎた私の息子は、最近成長が目覚ましい。

服は自分で着脱できるし、友達同士のおもちゃの貸し借りも上手に出来る。
他にも色々あるのだが、特に怒りの感情に成長を感じる。

一般的にイヤイヤ期と言われる2才の時の息子は、
何か気に入らないことがあれば所構わず寝転がり、泣き叫び、もうそのエネルギーだけで発電できる勢いだった。

大変だったが、彼の怒りには既視感があった。

(実家で飼っていた犬と怒り方がそっくり)

そう。息子の怒り方は、私が幼い頃から飼っていた柴犬に似ていたのだ。





単純かつ明快な彼らの怒り


犬の怒り方はこうだ。
事象が起こる→吠える (必要があれば戦うor逃げる) 

一方、2歳の息子の怒り方。
事象が起こる→泣く(床に転がる)

どちらも単純だ。
点火すればすぐ爆発する爆弾のように回避はできない。

勿論、人間と犬は違う。
犬の怒る理由はすぐ分かるが、息子が怒る理由は全然分からない。

何でこの道に石が落ちていないだけで怒るの?
何で汚れたオムツを交換したら怒るの?

理由も分からなければ、その対処法も違った。
犬は牙を向けたことに対して叱りつけて終わるのに、人間の子供は工夫が必要だ。

(犬の知能指数は3才と同じというが、犬の方が言うこと聞くな)

そんな風に思いながら、息子が怒りを忘れ、違う物に興味が移るのをあの手この手で小細工しながら待っていた。




さて、イヤイヤ期を克服し、言葉での意思疎通が取れるようになった息子は、怒る理由を説明できるようになった。

「何故あの時あんなに怒っていたのか」と問いかければ、彼は今や理路整然と答えれる。

道路にある石で鳩さんにご飯をあげたかったから。
頑張ってオムツに出したアイツは友達だった。

**成る程。分からん。  **


怒りのポイントは人それぞれ違うが、息子と私とは随分違っているようだ。
理由を聞いても、そうかそうか、と空返事しかできない。

しかも、100%自分の気持ちを言葉で伝えられる3歳は、怒らなくなったかと言えば、そうではない。
まぁまぁの頻度で怒る。

しかし、怒りに至るまでが、

事象が起こる→泣くだけだったのが、
事象が起こる→「こうして欲しい」と要求する→できないと分かると怒る
と、時限爆弾に進化したのだ。

これによって、大爆発から小爆発への誘導が可能になった。(大変助かる)




そして、泣く、の一択だった選択肢は、
今やバリエーション豊か過ぎて、そのコマンドの入れ方をするとそんな技が出るんですね、と玄人の格闘ゲームを見ているようで毎回感心している。



3才の大爆発


つい最近の話だ。
私は、その日遠出をして疲れていた。
慣れない場所で道に迷うし、帰ってきたら21時近いし、ヒールで歩き回って足も痛い。
夕飯もそこそこに息子とシャワーを浴びて、もう寝たかった。

しかしそんな私の思惑とは裏腹に、全身洗い終わった息子は空っぽの浴槽にお湯を溜め始め、出る気配が全く無い。

えー。なんでそういうことするかなー。
と、いつもだったらイラッとしていた心に余裕があったのは、この日は日曜日でまだ夫がお風呂に入っていなかったからだ。

もう夫に任せよう。
颯爽とバスタオルを羽織り、夫を呼んでバトンタッチ。後は頼むぞと、私は悠々と歯磨きを始めた。

だが息子はそれが気に入らない。
何故だ。何故いきなり親父が入ってくるのかと、息子は大混乱した。

「まま!」
「まま、お外で待ってますー」
「パパだめ!!まま!!」
「よーしよし、むすこちゃん、パパと一緒だよ」
「だめ!!パパじゃないの!!パパだと恥ずかちいの!!まま!!」

あ。これはマズいな。

息子の混乱振りに、私は確信した。
これは結構な大爆発になりそうだ。

この怒りは止められない。そう思った矢先に、
息子は「ままー!!」と絶叫しながら、風呂から飛び出てきた。


その様子はまさに荒ぶる神だった。
床に投げ捨てられるトミカ。カーテン裏に隠されるバスタオル。そして、すっぱっぱの息子。

「そうか。今日はその技か」なんて感心しながら、夏とはいえ濡れたままでいるのは如何なものかと、タオルを取る為カーテンをめくり上げれば、もう気に入らない。渾身の力を込めて神は叫んだ。

「見つけちゃ、だめなのー!!!!」




息子の中にある私


「もう!あち(あっち)、いてなさい!!(行ってなさい)」と、仁王立ちして指したのはまだ暗い寝室で。

(あ。私、息子にこれをやったことがある)

仁王立ちの姿、指差す方向、その言い方。全てに私が重なった。

箱に入れた瞬間から散らばるおもちゃを片付けたい時。
息子がガラス製品を割ってしまった時。
粗相したものを片付けたい時。

そんな時、私は寝室を指さし、今の彼のように取りつく島も無く怒っていた。




自分のやったことはこうやって返ってくる。

自己嫌悪に心が焦げつきながら部屋に入れば、「灯りは点けちゃだめ!」と言われたので、
何もできずに暗い部屋でゴロン、と横になり目を閉じた。

息子はどんな気持ちになっただろう。
どんな気持ちで、小さな彼はこの部屋に入って行っただろうか。

きっと、とても悲しくて、怖くて。
私が扉を開けるか、不安でいっぱいだった。


目を閉じると耳は敏感だ。
怒りまくっているあの子は今何をしているのしら、と耳を澄まして隣の部屋の動きを探れば、ガチャリ、と扉が開く音と共に小さな足音が近づいてくる。

早い。部屋に入ってそんなに経っていない。
思わず笑いそうになったが、火に油を注がぬよう口をへの字に曲げる。

すると、ぺたりとまだ水気が残る冷たい肌がくっつくので、思わず抱き寄せた。


「息子ちゃんね、もう怒ってないよ」
「ままのこと、許すの」

いつもの甘く優しい声で、「はい、なかよし」と言った柔らかい手には、粘土用のオモチャが握られている。

伸ばし棒と一般に呼ばれているそのオモチャは、中が空洞になっていて、よく息子は粘土をそこに詰めていた。
中を覗け、と差し出してくるので、暗闇の中目を凝らすと、粘土の代わりに何か入っている。

(ペロペロチョコの棒だ)

息子が食べ終わってからも大事に握る様子が微笑ましく、洗って渡した日が脳裏によぎる。
無くさないように、大事に、ここにしまったのか。

彼はまるでそれが、自分の吐息で壊れてしまうかのように、両手で包んで小さく小さく呟いた。

「これ、おいちーの」




その、複雑化する怒りの果てに得たもの


(この子、許す事を覚えたんだ)

私はその時、彼の行動に本当に、素直に心が震えた。
  
これは私のやった事の模倣では無い。
息子が至った結論と考えに、「許す」という感情が見えた。


怒りの先にあるのは何だろう。
勝つか、負けるかだけだろうか。

動物の世界ではそうだ。
私と飼っていた柴犬との間に、「許す」という言葉は存在しなかった。

飼い犬が牙を剥き、唸り声をあげた時、私は徹底して犬に勝ち続け、自分の方が強いのだと誇示した。
そしてその先に信頼関係があり、私は飼い犬を愛し、飼い犬も私の事が大好きだった。


しかし息子はどうだろう。
つい1年前には、犬と同等の単調の怒り方しかできず、忘れる事で解消していたのに。

犬とは比べ物にならないぐらい複雑な怒りの果てに、3歳の息子は「許す」という選択肢を得たのだ。


彼は、母が自分に負けたと思ったから許したのだろうか。
自分の方が強いと思ったから、部屋に入ってきたのか。

そうではないだろう。
エアコンの冷たい風に1人吹かれながら、彼は自身の怒りと向き合い、そのきっかけを作った母を許そうと結論に至ったのだ。
そして、仲直りするにはどうしたらいいか考え、大事にしまったお菓子の棒を手にした。


許す、というのは喜怒哀楽のように単純ではない。
勝つか負けるかだけの世界には存在し無い、人だけが持つ特権だ。

当たり前の、その辺に転がっている言葉なのに。
なんて、複雑な工程を踏まなければいけないのだろう。
なんて、得難い宝を手に入れられるぐらい、息子は成長したんだろう。


ぺろぺろチョコの棒の先には、何も無い。
しかし私はそれをちぎり、自分の口の中に放り込むと、ついでに息子にも分け与える。

空っぽのチョコは、優しく甘く美しい。

こんな風に、空想のお菓子で幸せを分かち合えるのも、人だけの特権だと、私は思う。







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