茶道論「茶禅一味論」① —安土桃山時代—
「茶禅一味論」とは
一休宗純、村田珠光、武野紹鴎、千利休、千宗旦の時代という茶道草創期。安土桃山時代から江戸初期にかけてのこと。
茶禅一味の背景
・中世の文化全体が宗教の大きな影響下にあった。
・仏教、とりわけ禅宗が芸文の世界の人々から精神的支柱として求められた。
中世の文化は宗教の力を借りて社会的に顕現したのである。芸能者が自らの芸のために演じ、興行をうつことはできず、神社仏閣の権威・権力に保護されそのもと社寺建立の勧進のため興行した。(勧進興行)
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桃山時代を「文化の還俗の時代」と呼び、桃山時代を経過することで、徳川幕府成立後、芸文はそれまでの宗教的権威によってではなく世俗権力による表現が可能となった。
同朋衆
同朋衆・・・南北朝期より「阿弥」を称し、芸文と深く関わる人々。
「阿弥」と称したとしても全てが時宗(一遍宗の僧)というわけではない。
阿弥を称することにより、半僧半俗の体をとり聖と賎の間を自由に運行できる。
南北朝時代後の時衆の衰退から禅宗へ、宗教的で理論的なインパクトとなった。
一休宗純は禅宗の役割を象徴する人物である。
人々が彼のもとへ精神的拠り所を求め参集したと考えられる。
・連歌師の宗長が一休に帰依して大徳寺山門を秘蔵する源氏物語の代価をもって 寄進した。
・金春禅竹は酬恩庵に隠棲する一休の傍らに居をもとめた。
・村田珠光が印可証明として圜悟の墨跡をもらった逸話。一休の法要に香典を寄せている『真珠庵文書』。
・連歌師、茶湯者は大徳寺の諱の「宗」の一字をうけ、宗易、宗久と称した。
参禅し戒を受け、芸道の理論と精神的根拠を求めた。
→結果、中世の芸文は禅宗を母胎とする様相をみせた。
しかし、それは禅宗だけでなく、金春禅竹の能楽理論は華厳教学、宋学の太極観、禅的教養の中で醸成され、禅の精神的基盤だけでなく、いくつかの教理から重層的に構成されている。
参考文献
熊倉功夫、一九九九年「茶道論の系譜」熊倉功夫・田中秀隆編『茶道文化体系 第一巻 茶道文化論』淡交社。
写真:筆者撮影(晴明神社、堀川通一条上ル)
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