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【エッセイ】哲学書についての話 (1,168字)

 大学生だった頃の話をしよう。僕はある大学の情報学部に入ったのだが、高校でやっていた情報系の勉強は得意ではなかった。文学部への入部を諦めて、無理を承知で受験して、合格した。

 「何としてでも現役で受からなくては」私は焦っていた。昔からこだわりが強く、視野が狭い。現役で受かったらお金がもらえるわけでもないのに。今の僕なら浪人するのにナ。

 「本当にそれでいいのか…?」という先生の言葉が脳裏に蘇った。案の定、勉強にはついていけなかった。意地でも食らいついて最初のうちは単位を取れていたが、だんだん勉強にしんどさを感じるようになってきていた。

 二十歳を迎える頃はどん底で、その頃に覚えたのがタバコとウイスキーの味、そして哲学書だった。大学に馴染めないつらさと、勉強にしんどさを感じるようになった苦しさを紛らわせる存在となったのが、知性への探求だった。

 当時ニーチェの『善悪の彼岸』と『ツァラトゥストラかく語りき』を読んでいたが、その当時私が求めている思想とは違うように感じて、ショーペンハウアーの哲学書を読むようになった。これが私が求めた哲学だと思って、嬉しかった。でも、もう内容は忘れてしまった。

 何だかんだあって大学をやめた。うつ病を発症したからである。病名は後に双極性障害に変わった。何もやめることはない。休学という選択肢もあったが、僕はもう何もかもが嫌になっていたので、中退することになった。
 それから、療養期間が長く続いたが、哲学書を開くことはなくなっていた。

 月日は流れ、僕は双極性障害をかなり寛解かんかいに近い状態に持っていくことができた。就労継続支援A型の施設を利用し始めてもう5年が経とうとしている。一般就労に向けて、必死で頑張っている。 

 心の余裕が生まれた。そしてメガネも買ったし、哲学書をちょっと読みたいという気持になった。大学時代のように、絶望から逃げるために読むのではなく、今は晴れた心で、哲学を理解したいから読むのだ。

 話は変わるが私の尊敬する詩人のひとりに、ジュール・ラフォルグという詩人がいる。彼は先ほども名前を挙げた、アルトゥル・ショーペンハウアーを熱烈に信奉していたと、どこかで読んだ覚えがある。

 たしかに彼の詩は厭世えんせい主義の匂いがする。難解で、詩の内容をすくい取るのがなかなか容易にいかないのだが、厭世的な香りは至るところから感じ取れる。

 ラフォルグの詩をより良く知るために、そして僕の詩を構成するスパイスとして、ショーペンハウアーの哲学思想を少しでも頭の片隅に置いておくと良い結果になるのではないかと思っている。悪い結果には、少なくともならないだろう。

 今年は色々なものを吸収したいと思っている。メガネをかければ視力も復活! だからたくさん本を読みたい。


(2024.2.3)

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