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「読書感想文」物語のなかとそと
江國香織さんの散文集です。
読むことは、どこに行ってもここに居続けること、なのだ。湿った土の上に、カエルのいる場所に、薄暗くなっていく部屋のなかに、振りだしていた雨のなかに。
物語を読んでいる間、私の身体はそこにあるのに、私は物語の中にいる。この散文集を読んでいる間、私の身体はこたつに入ったり、お湯を沸かしたり、ストーブの前でくるんとしていたりするのだが、私は江國香織さんと話しているのだ。美味しいものについて、パンに、お風呂に、旅について。江國さんは、嘘のように本当を話し、本当のように心地いい嘘をつく。あたたかいスープをすするように、ゆっくりと味わいながら、彼女の話を聞いているのだ。
お正月がおわり、時計がいつもの冷静さをとりもどしてきて、子どもたちが学校の気配をチラつかせてくる。「ここにサインを」「雑巾がいります」など。「書き初めは?しなくていいの?」と何度聞いても「始業式のあとに授業でするからいいの」という。新聞紙をたくさん敷いて書き初めをするのは大掛かりで、ひと仕事なのだけれど、しないとなるとガッカリしている自分に驚いて可笑しい。
そうしてまた、栞の箇所を開き、江國さんと話をしはじめる。このころにはすでに、私の思考口調が江國さんの話し方に似てきている。
樹にも土にも電信柱にも、道にも壁にも塀にも手で触った記憶がある。看板にも、路上駐車した車にも、よその家のガレージのシャッターにも、有刺鉄線にも、電話ボックスにも。 あのころ、外で遊ぶということは、街にじかに触ることだった。
本当に。あの塀のザラザラガサガサ、シャッターのツルツル、と指先につく何の粉がわからない白さ、電信柱の暖かさ。
そうだった。江國さんと話していると、思い出すのだ、忘れてしまっていた大切なことを。いつもの通学路の歩道に、踏むとカチャカチャなる溝の蓋がどうしてもズレているところがあること。ポキッと気持ちよく折れるイタドリが生えている場所。何となく怖いお地蔵様の前を1人で通るときに親指を隠すこと。手で触れた感覚、匂いも温度も思い出した。ブランコの鎖の冷たさと、挟まったときに掌についた凹凸とサビの色も。
外でたくさん遊んだあとの、自分の腕の匂いを嗅ぐのが癖だったこと。(秘密だけれど。)通学路や公園や広場や駐車場をじかに触れていた。
いつの間にか日が暮れて、娘がカーテンをひく音で、私の身体がずっとこたつに入っていて、猫が足と足の間に丸まっているのに気がつく。そろそろ夕飯の用意をしないといけない。ようやく私は、江國さんと語る散文集からすっかり出て、こたつからも出るのであった。猫と本を置き去りにして。
すばらしい本を一冊読んだときの、いま自分のいる世界まで読む前とは違ってしまうあの力、架空の世界から現実にはみだしてくる、あの途方もない力。それについて、つまり私はこの散文集のなかで、言いたかったのだと思います。
一年の初めに読んだのが、この散文集です。ゆっくり江國さんと美味しいものや子どもや大人の話をして、豊かな時間を思い出せてよかった。私もあの途方もない力に引っ張られたりしながら、この一年をまた、物語のなかとそとを行き来しながら生活をする、幸福の予感で嬉しくなってしまった。あぁもう、私の日常に江國さんがはみだしてしまっている。
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