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習慣って難しいと思う

「当然のルーティン」

毎日目を覚ましては,顔を洗い,歯を磨き,朝食をとる。
日々の営みの大半は,このような「当然のルーティン」の連続であるように思える。

食事や水分補給,睡眠をとることといった生理的な習慣
通勤通学やゴミ出しといった社会・生活的な習慣
日記や体重測定といった個人的な習慣

ルーティンはルーティンである時点で,その人にとっては当然のことのように行われる。
そういう意味では,ルーティンとは,全て「当然のルーティン」であるのだろう。

だが,それを当然のことにするにはかなりの努力を要するのが実情である。
今年は,それを改めて身にしみて感じる一年間であった。

習慣が潰えて一年

私は,いくつかの習慣を身につけようと努力したことがある。

一つは,noteの投稿を習慣づけること。
一つは,体重を毎日測るということ。
一つは,食事を記録するということ。

この他にも,日記をつけようとしたこともあれば,読書を毎日しようとしたこともある。
しかし,ある程度軌道に乗せることができたのは,以上の三つであった。

だが,今年はこの習慣のどれも満足にすることはできなかった
記録は1日おきになり,2日おきになり,気づけば1週間に数度となり,最後にはいつ記録したのかもわからないような有様である。

そのため,もしも振り返るとするのであれば,この一年間はまさに習慣が潰えてしまった一年間と言い表すしかないだろう。

私が私であるために

だが,三日坊主などよくある話だろう(少なくともそうだと信じたい)。
そのため,特段気にすることもないように現実逃避的に過ごしていた。
だが,そうもいかない事態になった。

私は,いつからかメモを取ることが億劫になってしまったのだ。

私にとって,書くことは読み返すことよりも重要な営みであった。
しかし,それもある種の習慣の一つであり,多くの習慣が同時多発的に失われれば,この習慣の足も引っ張られるように失速するようだ。

ルーティンは,当然のことでありながら,その段階に持っていくまでがやはり難しい。
しかし,ルーティンが真に「当然のルーティン」となれば,その習慣は私が私であるための重要な要素となる気がする。

「なりたい自分になる」
そんな大袈裟な動機ではないが,せめて私が私であり続けるために,今一度習慣を見直したいと思う。

なぜなら,日々の営みの大半は「当然のルーティン」の連続であるのだから。

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