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「追い込まれてるとき、人の本質が出る」という言説が好きになれない

人間の本質は善か、悪か。

いわゆる、性善説と性悪説の問題がよく議論されている。

とはいえ、そもそも人の「本質」とはなんだろうか。

たとえば、人の本質が現れる瞬間とはどういう状況なのか。

追い込まれているとき?

安心しているとき?

「追い込まれてるときに、その人の本質が現れる」みたいな言説をよく見る。

でもそれって、ちょっと酷じゃないかと思ってしまう。

だって、追い込まれているときに取り乱すのは普通だと思う。人に当たってしまうことって珍しくない。人間味がある。

仕事で嫌なことにまみれたとき、恋人とうまくいってないとき、お金が足りなくて、ご飯が食べられないとき。

追い込まれれば追い込まれるほど、イライラしてしまうものよね。
(かといって、理不尽に八つ当たりされるのはもちろん嫌だ)

逆に、死ぬかもしれないくらい追い込まれてるときに、他人を最優先できるのはむしろ怖い。
聖人君主も、行き過ぎれば狂人だよ。

満たされてるときに人に優しくできるのは、自然だと思う。心が安定しているから、余裕がある。もちろん、人に優しいことは良いことだから、褒められるべきことでもある。

人の本質を、一側面から一方的に判断することは酷だと思う。人にはそれぞれ、心のキャパシティがある。

追い込まれたときに取り乱してしまう人もいる。でも、その人がいつだって周りに当たり散らかしてるわけじゃない。

平常では、とても優しい心の持ち主かもしれない。いつか自分が取り乱してしまったとき、強く共感して、支えてくれる仲間かもしれない。

人は、たった一側面から本質が決まってしまうほど単純じゃない。いろんな状況を通して、多方面から少しずつ見えてくるものだ思う。

たった一側面から切り取って、まるで「その人の全てだ!」といわんばかりに決めつけるのは、なんだか好きになれない。

「人の本質」という言葉に踊らされないで、人と向き合っていきたい。

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