キリスト教の勧誘で感じた道端のウンコについて
今日は土曜日。初めて玄関にキリスト教の勧誘のひとが来た。
可愛らしい顔の彼女が教えてくれたことは、神は人間に試練を与えないということ。
どんなに苦しいときも、その苦しみは神による試練や罰ではないということであった。
その可愛らしい女性は、また来ますと礼儀正しく去っていった。
そして今、わたしはベッドに横になり、その女性のことを考えている。
ほんとうに優しそうな人だった。あのように穏やかで可愛らしい女性であれば、人の悪口や、ごみのぽい捨てなどはしないのであろうか。無駄遣いをせず、質素に慎ましく、部屋もきれいなのだろうか。
ふと、今日は掃除をしていないことに気づく。台所にはお菓子の食べかけも置いてあるはずだ。
きっと彼女はわたしとは違う。わたしも一応、神社に初詣にいったりお守りを買ったりするが、常に神に祈りながら生きているというわけではない。おみくじには信心せよと書いてあったが、常にとなると難しいことである。
彼女はきっと、人を怒ったり、ハゲを笑ったり、道端にウンコをして放置するということはしない。わたしはすべて経験がある。
そのなかでもウンコのことをじっくり考えたのでここに記すこととする。
ある夏の日であった、夜に国道をドライブしていたわたしは、便意をこらえきれなかった。
早く帰ってウンコしようとするあまり、ミニストップを通りすぎてしまった。次のファミリーマートまでは10分以上はかかる、わたしは限界突破した。
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