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人を寄せ付けないオーラをまとう

「とっつきにくさ」は欠点なのか


私の話である。

因みにこの話は、誰かに話したこともなければ、このことについて、こうして記事にしたり、文字に起こしたことも一度もない。


人生を変えてくれた恩

人当たりの良い人と聞いて、どのような人を思い浮かべるでしょうか。

私は、長い間、そのような
『人当たりの良い人』
という見方をされてきました。

これは、元からあった気質ではなく、生きていくために、身に付けたスキルです。

私は、学校を卒業してから、飲食店で働いてきました。
学生時代には、家からお小遣いをもらったこともなく、自分の力で稼ぐことでしか、お金を手に入れるすべがなかったため、消去法で飲食店にアルバイトに行きます。
しかし、学生時代には、「近寄りがたい」と周囲から言われていた私は、接客には向いていませんでした。
最初は、人と話すことができず、クレームを毎日のようにもらってしまいます。

これを克服させてくれたのは、井上さん夫妻でした。
井上さんは、私が高校生のころ、勤めていた飲食店のオーナーになり、私を使い物になるように、必死で教育してくれました。
時には厳しく、時にはほめてくださり、私にとっては『親よりも親身なって』私の将来を見据えて教育してくださったと、感謝してもしきれません。

そのおかげで、お店でも一、二を争う『非常に接客の良い従業員』の一人に数えられるほどになりました。
技術を教えてくださった、板場の親方にも感謝しています。何者でもなかった私の、一生を支えてくれる自信を身に付けてくださったことには、感謝の念が堪えません。一方では、人とコミュニケーションを取れるようにしてくださるという、人間的成長をさせてくださった面において、井上さん夫妻には、人生を変えてくれたと思っています。
これらの御恩には、感謝の言葉が見つかりません。

『人当たりの良い人』という仮面

こうした変化をもたらしたのは、『仕事面』が中心でした。
もちろん、私生活でも、変化がありました。
まともに人と話せなかった私は、仕事で接客を教育されたことにより、自信がつき、私生活でも人と話せるようになりました。
今では、パッと見では、それほど人づきあいが苦手な人と、映らないのではないかと思います。
それなりに、人づきあいができる人として、認識されていることが多くあり、それによって、人からも話しかけられるようになりました。

以前は、人から話しかけられるようなことはほとんどなかった。
そのため、突然話しかけられたり、道で人から突然道を尋ねられたりすることはほとんどなかったのです。

しかし、これは、思い違いだったということに気づきます。

人間の根本的な性格というのは、20代の半ばで完成しており、それ以降は変わらない、と言われています。
私もそれは、例外ではなかったのです。

根本的には、私は四六時中、人当たりの良い人を演じ続けることはできていませんでした。
たとえそれが、たった一日でも、無理だったのです。
一日、ずっと、人当たりの良い人を演じることは、私にとって、とても疲労感を覚えることであり、それを、私の中の私自身が許してくれなかったのです。

意識していないのに、人を横目でにらんでしまう。
その人のことが憎くてやっているのではないのに、ついつい、口角が下がってしまう。
これらの行動は、意識していても、ほんの少しの気のゆるみが、そのような印象の悪い自分を形作ろうとする。

印象なんて、いいに越したことはない。
人からは良く思われたいと思っている。

それなのに、自分の行動は意に反して、印象の悪い、とっつきにくい自分をさらけ出そうとする。
せっかく、苦労して手に入れた仮面の紐を、頭の後ろで固く結んでも、それを引きちぎってまで、素顔をさらそうとする。

これはなぜなのか、必死で考えた。
人当たりが良い方が、人間関係も上手くいく。
しかも、せっかく人当たりの良い自分が築いた人間関係を、印象の悪い自分が一瞬でも出るだけで、その瞬間にすべてが壊される。

こうしたことは、私の自信を失わせるのに、時間を要しなかった。

人間には毒がある

あるとき、私はある結論にたどり着いた。

「人間には、もともと一面しか存在しないという人はいないのではないか」

ということである。
違うのかもしれない。
もちろん、裏表のない人間も存在するのかも知れない。
しかし、『心を許した人』に対してと『心から信頼できない人』に対して、同じ気持ちで接している人は居ないのではないか。

たとえ、表面的には、変わらないほどの演技力を身に付けたとしても、心の底から、双方に対して同じ気持ちで接することができる人というのは、たぶんいない。
やはり、『心を許した人』には、安心して話していると思うし、『心から信頼していない人』には、どこか緊張感があるものだと思う。

そう考えると、自分が常に、『人当たりの良い人』を演じ続けることが難しいのは仕方のないことなのではないかと思えてきた。

それは、人には、陰と陽、光と影、表と裏が存在すると認めることからも、考えられる事であるためである。

ロベタの説得力ってものもある。平気でやれば、逆にひろがる精神状況が生まれてくる。
自分は消極的で気が弱い、何とか強くなりたいと思う人は、今さら性格を変えようなんて変な努力をしてもむずかしい。
強い性格の人間になりたかったら、自分がおとなしいということを気にしないこと――それが結果的には強くなる道につながる。
強くなろうと思えば思うほど余計、コンプレックスを持つだろう。
また、もともとおとなしい性格なのだから、急に強くなるわけもないし、強く なろうと力めば、わざとらしいふるまいになって、かえって周囲の失笑をかうことになる。
だからそんなことをやったら逆効果になってしまう。
それよりも、自分は気が弱い、怒れない人間だと、むしろ腹を決めてしまうほ うが、ゆったりして、人からその存在が逆に重く見えてくるかもしれない。
もっと極端なことを言えば、強くならなくていいんだと思って、ありのままの姿勢を貫いていけば、それが強さになると思う。
静かな人間でそのまま押し通すことが、逆に認められるし、信用されるということは十分あり得る。

『自分の中に毒を持て』岡本太郎

岡本太郎さんもこのように、著書の中で話している。
つまり、
サービス精神で周りの期待通りのふるまいをしたり、お笑い芸人のような話し方をする人が多くいるのは、背景に「人に嫌われたくない」「自分がかわいい」という思いによるものだと言っているのだ。

自分は、自分が可愛くて、人に好かれるような振る舞いをしようと試みていることに気づくことができ、接客業で身に付けたスキルが、恰も自分の性格とすり替わったかのような勘違いを起こしていた。

だから、自分は生まれ変わったかのような錯覚を起こしていたのだが、結局のところ、『演じれる人物が一つ増えただけ』に過ぎなかったのかも知れない。

人はそれぞれ、性格というものを持ち合わせているのだが、十人十色、千差万別である。
そんなことは頭ではわかっているのに、いざ、自分が当事者となると、そんなことは忘れてしまって、自分だけは変われる。自分だけは特別だと思っている。

人は皆、「自分だけは死なない」と心の底では思っているそうだ。
それは、『いつかはみんな死んでいく』という頭では理解していることを、自分だけは例外であると思い込んでいる証拠である。
もちろん、「自分も死ぬんだ」ということを、強烈に意識しすぎると、そこからの人生を前向きに生きてはいけなくなるための、自己防衛本能のようなもので守られているのだと思うが、自分だけは特別だと思いがちなのは間違いのない事実である。

しかし、『死ぬこと』を真剣に捉えていないとすると、『生きること』も真剣に捉えていないことになる。
心から、『生きるとは?』ということを考え続けると、精神が病んでいくのはそういうところから、来るのかもしれない。

少し話がズレたが、こうして『人間には自分が毒だと思える部分を持ち合わせること』によって、自分という存在が保たれているともいえるのだと思うのである。
心から『人当たりの良い人』だけを演じている自分を想像してみてほしい。
そのような人が、自分の近くにいたら、その人は人間らしい魅力があるのだろうか。
その人に、欠点や毒があるからこそ、人間としての魅力に優れているのだと言えるのだと思うのだ。
だからこそ私たちは、自分の中にある毒を持っていることを自覚して、それ伴う自分にもたらす不利益を自覚して、それをあえて抱えたまま、人生というものを歩んでいくことが、自分の人生を生きることになるのではないかと思う。

人間には、キレイなものだけを持った人というのは存在しないし、存在していても、それは人間的魅力がない。

人には、キレイな部分と汚い部分というものが必要なのである。
それを認めるところから、人生というものが始まるのかもしれない。

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