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宮沢賢治の遺稿

魂を揺さぶる詩句を生んだ作家の心情が表れる
【宮沢賢治の遺稿】

岩手県花巻市が誇る
大正〜昭和初期の作家、宮沢賢治。

常に手帳を携帯し駆けつけた無数のメモから、世代を超えて愛される名作が生まれた。

宮沢賢治はいつも鉛筆を細紐で首から下げ、小さな手帳を携えて、歩きながらでも迅速にメモをしていたという。
未完成のものを良しとしない性格のため、無数の手帳のほとんどを自ら破棄していたが、亡くなった後に14種類の手帳と4種類のページが発見される。
そこには日常の雑記と共に、作品の心象、断片が綴られてあった。彼の名作の多くは、こういったメモ書きから生まれている。

原稿は元より、一枚のハガキの文章も厳密に推敲を重ねる性分。
代表作『銀河鉄道の夜』は7度に渡る加筆や削除、4度の大改稿を経て最終型になっていたものの未完成で残され、没後の1934年に遺族の手によってようやく活字化された。
初稿から実に10年後のことだった。

鉛筆による手帳の筆跡は深慮を刻み付けるようにゆっくり淡々としている。
一方、原稿用紙の筆致は移ろう発想を何とか留めようとする走り書きに見える。
宮沢賢治の遺稿には、ほぼ無名作家のまま37歳という若さで他界した運命への、達観と肖像が混在しているようで切ない。

【雨ニモマケズ手帳】


10ページにわたる詩の冒頭部

あまりにも有名になった詩が収められていることか ら、「雨ニモマケズ手帳」 と呼ばれる小さな革手帳 (表紙サイズ横約8cm)。 宮沢賢治の没後、遺書とともに最初に発見された1冊だ。
亡くなる2年前、 1931年秋の発病から1932年の初め頃に病床で使用されたもので、他の手帳のように日常生活のメモは混在せず、作品の下書きと経典の語句、 内省で占められている (日記は生涯書かなかった)。
写真の2つの見開きは、 全10ページにわたる詩 「雨ニモマケズ」の冒頭部 (51~54ページ)。 全文は黒鉛筆、 最初のページ右上の 「11.3」 のみが青鉛筆で書かれている。 発見時、鉛筆ホルダーには小紙片が挟んであり、そこにも宗教観を表した詩が書かれていた。

【手帳を使う人間として】

私も手帳を使っている。
いわゆるシステム手帳と呼ばれるもので、サイズはコンパクトサイズ、リング径は40 mm となる。
手帳始めた時に、憧れの人の本の中に書かれている手帳の使い方の真似をし、そして実践してきた。
夢や目標、計画など、全てその手帳に納めている。
手帳を使うとなると、やはり記録というものを残したくなる。自分自身の記録である。
いつ、どんなことを見て、聞いて、どんなことを考えたのか。そして自分は、これからどうしたいのか、その結果どうなったのか。
それらは全て記録である。
作品という意識はない。ただの記録である。
だから推敲しようなどということを考えたこともないし、やろうと思ったこともない。
だから宮沢賢治は、もともと作品を書くつもりで書いていたのだと思う。そうでなければいくら完璧主義者とはいえ、書いたものを推敲し推敲しと、直していくことはない。
しかし首からさげていた手帳。
首から下げるということは、すぐに書けるということである。
そこには、『思いついたらすぐに書きたい』と言う意欲が感じられる。
しかし作品を書いている。それも書き直して、書き直して、書き直す。

>作品の下書きと経典の語句、 内省で占められている (日記は生涯書かなかった)。

とあるが、やはり内省から生まれたのではないかと私は睨んでいる。
心の内側で考えたことを作品に投影するのだ。
だから結果的に人の心を打つことができた。
内省には、非常に大きな力があると私は思っている。誰もが心の中で考えることは、することであるが、こと内省となると、多くの人がやっているとは言い難い。

宮沢賢治の作品が後世まで語り継がれ、読み継がれているのは、宮沢賢治自身の人生を歩むが故に、生まれてくる内省によって作られた作品だからではないだろうか。
それほどまでに、『首から下げた手帳』と『内省』には、力があるのだと私はこの『雨ニモマケズ手帳』と『宮沢賢治』を見て強烈に痛感したのだった。


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