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かつてあった毎日日記という宿題

これは明るめの話。

小学生から中学生くらいの頃、毎日短文の日記を書くという宿題がありませんでしたか?
私の中学校にはありました。
数行でいいから、毎日何かしらの文章を書きましょうという宿題。

私は当時から文章を書く事が嫌いではなかったので、毎日そこそこ真面目に、日によって程度の差はあれど一応は内容があることを書いていたのですが。

他のクラスメイトは皆「今日も疲れた」「昨日と同じだった」以下同文毎日繰り返し、といったマジの”一言”だけだったらしく、うちのクラスで辛うじて日記らしきものを書いていたのは私一人だけだったとのことで(毎日日記って何も書くことなくね? というクラスメイト達の話から芋づる式に判明した。その後担任教師もそのようなことを言っていたからマジだったのだろう)。


そんな、文章力マイナスからのスタートである我がクラスの担任を務める、大学を卒業したばかりで不慣れと真面目と苦労人が滲み出ていた先生は、私の日記について「読むのが楽しみだ」との感想をくれたことがありました。

内容は大したこと書いた覚えがありません。
今日の授業はこの教科のここが一番難しかったとか。
テストの点が良くて嬉しかったとか、悪くて悔しかったとか。
この前何気なく買った漫画が面白かったとか。
好きな小説が映画化したから期待して見たら内容にがっかりしたとか。
ピアノ練習(習い事)が大変だったとか。
そんなもんです。
文章で雑談をしていただけ(実際の雑談はできないくせにね)。


思えばあれが生まれて初めての、実際に言葉にしてもらった、自分の文章に対する褒め言葉、いうなればファンレター(コメント)だったかもしれません。


作文コンクール等で貰うことが出来る賞と批評は正当な評価であり、ファンレターとは全く異なるものです。

私が創作にのめりこんだ切っ掛けはまだここに書いたことがありませんが、簡潔に説明すると、学生時代に文章を使った創作で賞と批評を頂いたことでした。
「批評」はその物の是非を指摘して価値を検討する行為なので、個人の好み云々の話ではないじゃないですか。
ひとつの作品について批評をしてもらうという事は私にとってとても分かりやすく、是も非もすっと心に入ってきて凄く嬉しい出来事だったんですね。


ですがファンレターという、討論も指摘もない個人の好意を示してもらう行為もまた、別ベクトルで嬉しい出来事だったなあ。とふと思い出すなどしていました。


なんて言ってみましたが、先生にとっては「クラスで唯一真面目に宿題の日記を書いてきてくれるから手がかからなくてありがたい」というそれだけの評価だったのかもしれません。


これは恩師との感動エピソードとかではなくて、というか大変失礼な話をすると、正直先生に対して上記以外の出来事はあまり覚えていなくて(実年齢は知らなかったけどどう見てもかなり若い先生だったから、中学生とかいう一番手のかかる時期の子供、しかも田舎の馬鹿中学の子供達の担任とか大変だろうなという印象があったくらい)。

それでも私はその言葉をいまだに覚えているわけで。

そんな、本当にただ、それだけなんですけれど。
でも、少し良い思い出として自分の中には残っています。


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