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書評『コンビニ人間』(ネタバレあり)

はじめに

『コンビニ人間』(村田沙耶香)を読みました。予想以上に良かったです。

最近読んだ本の中では群を抜いて文章が稚拙でしたが、欠点はそれだけです。重大な欠点と言えばそれまでですが。

私は普段は海外文学を読むことが多く、日本の作家はほぼ読みません。
しかし、この作品は予想外に上手くできた作品で、かつ書籍自体の難易度も低いので、これは書評が書けるのではないか?と考えまして、このたび記事にしました。

なおネタバレありです。あらすじも飛ばし、構造の解説に重点をおきました。また、「社会規範」というワードを使用しまくります。

主題

「社会規範に適応した人間は、そうでない人間を攻撃してもよいのか」
本書の主題である。平易な文章で描かれるが、たとえば「生の権力」(フーコー)の概念と結びついた物語だ。

また、物語を通して『闘争領域の拡大』(ウエルベック)の構図も読み取れる。おそらく著者は同作品を読了していると考えられる。さらに、複数の場面を通じて登場人物が主人公たちを攻撃する様子は、『異邦人』(カミュ)の終盤における裁判を連想させた。

私たちは白羽をどう見つめるか


本書に中盤以降登場する白羽は、職務怠慢と異常な言動を繰り返したことが原因で主人公の所属する集団から排除される、無職の中年男性である。また、過去にも同様の経験が複数回あることが示唆される。
彼の存在は、われわれ個々人が持つべきとされる社会規範から締め出された人間、「敗北者」として映る。そして、彼自身そのことにも自覚的である。

人生のある段階までは、他の登場人物と変わらない、規範を守る凡庸な人間だったと推測できる。そこから一たび何かのきっかけで社会規範から逸れたことを起点に、内部から疎外もしくは攻撃されるようになった。それにより社会への憎悪を募らせ、他者との折り合いも悪くなり、どんどん転落していく。そのたびに性格にますます歪んでゆく…という悪循環が目に浮かぶ。

本文中で明示される限りでは、一度目の逸脱は大学中退であり、二度目のそれは専門学校中退であろう。

彼のような存在は現行の社会システムにおいては一定数生み出される存在である。確かにその言動から強烈な嫌悪を催す対象ではあるが、彼に過剰な冒涜を浴びせる人間も、何かを発端に規範から漏れてしまえば第二の白羽になる可能性がある。主人公の語りはそこに言及はせずとも、あらゆる舞台設定を鑑みるに、本書は遠回しにその可能性を肯定するように映る。

さらに、物語で特徴的に映し出されるのは、白羽が恵子の容姿やキャリアを攻撃する場面。社会規範から締め出された人間が、社会規範に属さない人間、いわば同族を攻撃するのである。
おそらくここで大半の読者は「彼はどの立場で言ってるの?(笑)」という失笑を漏らさざるを得ない。少なくとも私はそうだった。

しかしながら、白羽と恵子(主人公)を取り巻く登場人物たちを通して反復される
「社会規範に適応した人間は、そうでない人間を攻撃してもよい」という命題は、なかば自明のものとして「 社会規範に適応していない人間は、いかなる人間をも攻撃してはならない」という命題も包括する。

もしも、これらを基礎とした社会のあり方に異を唱える(つまり、本書に内包される著者の問題意識に同意する)のであれば、
白羽が恵子を攻撃する際に我々が直ちに感じる「お前が言うな(笑)」という感情には、別な目線で捉えなおさねばならないだろう。
我々が本書を通して違和感を覚える、まさにその社会規範によって導き出された感情だからだ。
仮にも上述した命題を否定する以上は、論理的に直ちに導かれるわけではないが、「あらゆる人間は、あらゆる人間を攻撃してもよい。」という命題が真である可能性も出てくるわけである。

都合よく規範を解釈しようとする自分に気付かされる

他にも関連する事項を一つあげるなら、恵子の一人称による語りが進む中で、あらゆる問いが読者に示唆される。そうした場面におけるわずかな瞬間、自分が持つエゴに気付かされることがある。

まずは恵子が地元の友人たちとバーベキューをする場面。

なぜ恋愛経験のあることが規範的なのか?
交際相手がいることや結婚していることが規範的なのか?

このような疑問を主題として認識しながらも、読者である私は外野で感じた。「こういう無知蒙昧な(アホそうな)コミュニティならこんな雰囲気だよなあ」と。

次にコンビニで各種の不祥事を起こした白羽が痛烈に批判される点。

なぜ、泉(パートの中年主婦)は白羽(アルバイトの独身中年男性)の属性を攻撃できるのか?
なぜコンビニ店長は同様に彼を攻撃できるのか?彼の履歴書まで持ち出して?

そしてその場面を読みながら、私はもはや半ば自覚的に思う。
「お前らどんぐりの背比べだぞ、いい加減にしろ」「店長、あんたもブラック企業の従業員じゃん」と。

以上の私の態度は、純粋な構造への疑問では終わらずに、相手に「知性」や「年収」で叩ける要素がある場合にはそこに冷笑を加えている。
これはつまり、他者にマウントを取るときの思考体系。

本書では終盤に、恵子が白羽と同棲していることがバレる。その時の周囲の態度の豹変ぶりと同じだ。
恵子・白羽を軸とした「規範」の内外を軸とする攻撃が終えられた後に、恵子が規範の内側へ入る。
すると今度は恵子と他者の間に「優劣」という上下関係が再度形成され、恵子が新たなタイプの攻撃に晒される。
(ex.「恋愛のことなら何でも聞いてね?」という恵子の友達。明らかに下位の人間への振る舞い。)

全般を通して描かれる社会規範に気味悪さを感じつつも、それを観察する私自身の反応の中にこれまで恵子・白羽をサンドバックかのように叩きまくっていた登場人物と同じ心情を見出す。
「論理的矛盾を犯さずに登場人物を批判することは可能なのか?」と頭が混乱する。

本書の凄さは何よりそこにあると思う。

恵子という「信頼できない語り手」


作中の技術面においては、「信頼できない語り手」という手法が使用されている点に感心した。

「信頼できない語り手」とは、一人称の語りや回想において、話者の意識・無意識にかかわらず内容説明の中に誤謬や嘘を含ませることで、それを受け取った読者のミスリードを誘う手法である。

純文学であれば『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン、ゲームだと『ファイナルファンタジー7』クラウドの回想が有名である。)

この手法によって、主人公が自ら認識していた「コンビニ勤務を通じて社会に溶け込めるようになった」という認識は一種の思い込みだったことが巧みに表現される。彼女が幼少期から抱いていた自分の欠陥を埋め合わせできたという感覚、それに付随するある種の自己肯定感が中盤以降に突然崩れ去るのだ。

第一に、 恵子との同棲がコンビニの同僚に気付かれたことを聞いた白羽の発言。

「それはね、あんたがおかしすぎたからですよ。36歳の独身のコンビニのアルバイト店員、しかもたぶん処女、毎日やけにはりきって声を張り上げて、健康そうなのに就職しようとしている様子もない。あんたが異物で、気持ちが悪すぎたから、誰も言わなかっただけだ。陰では言われてたんですよ。」

第二に、コンビニ店員の恵子へ対する態度が豹変する中で気付く事実。

今まで知らなかったが、どうやら皆、たまに飲み会をしているようで、子持ちの泉さんも夫が世話をしてくれる日は顔を出したりしているようだった。


第三に終盤の妹の発言。

「お姉ちゃんは、コンビニ始めてからますますおかしかったよ。喋り方も、家でもコンビニみたいに声を張り上げたりするし、表情も変だよ。お願いだから、普通になってよ」

特に第三の発言には衝撃を伴う。
もともと恵子は同僚の喋りやファッションを組み合わせ「普通の人」らしく振舞うことを習慣化しており、それに成功していた(と思い込んでいた)。
むしろ妹や友人とコミュニケーションをする際も、彼女らの振る舞いや服装の変化などには敏感で、「今この子は誰の影響を受けているんだろう」と言及することも多かった。主人公がそうした振る舞いについては「ミス」を犯さないだろうというミスリードが仕込まれていたのである。

以上のような点を観察してみると、すでに白羽が言及しており、読者も本文の中で感じていたであろう
恵子の元気すぎる接客がどのように他者の目に映っていたのか
登場人物たちは恵子との会話の中で、発した言葉そのもの以上に何を思っていたのか
更には「持病があるからコンビニを続けているんだ」という嘘がバレていない、という彼女の認識は実際はどうなのかなど、
あらゆる恵子の語り(主観)と他者から見えた姿(客観)のズレが浮き彫りになる。結果、コンビニアルバイト以降も、白羽とは異なった形で(恐らくは白羽よりも目に見えて)規範から外れていたいうことをまざまざと見せつける。

そのような残酷極まりない様子が、かろうじてユーモラスに語られる。
「社会規範」というテーマを対話を通じて訴えるだけでなく、中途の段階で突然に主人公への解釈転換を読者に投げかけてみるなど、読み物として面白いな、と思えた。

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