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遂に始まった自分の世界!

今言えることは、この現実は自分が招いている思ったことが基礎になっているということ。

つまり、自分が想像した世界が始まり続けている。

主体性は自分にあるので、世の中の全てが自分の采配の上に成り立っていて、それに伴って動いている。

こういう感覚の現実味が分かってくると、フィードバック(Feedback=帰還現象)もすぐに起こり出してくる。

元々は自分の思っている音楽は、学校の音楽やテレビで鳴っている音楽が中心に有って、大して面白いものでは無かった。

「どこが面白いんだろう?」とすら思っていた。自分の中では、「もし音楽が自分の好きな機械的要素を持ち始めたら、きっとその音楽は好めるかもしれない」と思っていた。

小学校でこんなことを思っていて、確か音楽の成績いつも1か2のどちらかだった。声を出すのも苦手だったし、ましてや歌うなんて絶対に考えられないって感じだった。それがそのまま成績に表れていたのだと思う。

そういう小学校生活の中で5年生くらいになった時に女子とかちょっと新しい物好きの男子が「YMO(Yellow Magic Orchestra)って知ってる?」と言い初めて「テクノポリスとかライディーンって知ってる?」というので、段々それがどんな音楽なのか興味を持ち始めた。

それからテレビか何かでYMOの音楽を初めて聴いて、「これは自分の求めていた音楽の響きだ!」と悟った。

黄色いジャケットのカセットをレコードショップで見つけて、雷電(ライディーン)とテクノポリスという曲がちゃんと収められていると確認した『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』というアルバムが生まれて初めて買う音楽となった。

小学6年になったら、ほぼ毎日その音楽ばかりを繰り返して聴いていた。この音楽がシンセサイザーで演奏されていることを知って「そんな夢みたいな楽器があるのか?」と思った。

毎日繰り返し聴いていた音楽を母親がステレオ装置を与えてくれて、初めてその音楽をヘッドホンを装着して聴いた時に「正に本当に求めていた音楽体験ができた!」と思った。それがステレオという音楽を初めて聴いた時に感じた神秘体験だった。

YMOの音楽に完全に取り憑かれた。

中学生になっても毎日がYMOの音楽に取り憑かれていたが、母親がチューナーで外国の音楽を聴いているのを見て自分も海外の音楽を聴き始めた。

その時の音楽は多分NHK-FMのクロスオーバーイレブンだったと思うけど、その中に自分の好きなYMO以外に似たような響きのヒューマンリーグやヤズーなどのお気に入りを見つけて、それらがエレクトロポップというテクノポップとはちょっと違うフィーリングの音楽を聴き始めた。

これらが自分の音楽体験を幅広くしてくれた。最初はYMOの音楽しか聴いていなかったけれど、もっと違う拡がりを洋楽のエレクトロポップに感じ始めていた。同時期に坂本龍一のサウンドストリートなどをよく聴いていたので、その中で紹介されていた音楽も集めて聴く様になっていった。

中学生の時はステレオ装置のマニアみたいにたくさんカタログを集めていたけれど、その興味が段々とシンセサイザーに向き始めていた。最初は母親から「シンセサイザーはやらないの?」って言われて「楽器なんてできない」と思っていたんだけれど、読んでいたYMOのよく載っている雑誌にシンセサイザー記事もたくさん載る様になってきて、いつの間にか、それらの予備知識がたくさん付いていた。

中学生の時はシンセサイザーに詳しい友人がいたので、いろいろ教えて貰って、かなりそこに興味を持ち始めていた。高校に進学した時におばあちゃんからの入学祝いを貰って念願のシンセサイザーを入手することができた。めちゃくちゃ喜んでいた覚えがある。

最初の内はリズムマシンが無かったので、いろいろな音を作って内蔵のシーケンサー(自動演奏装置)で繰り返して鳴らしていただけだったけれど、郵便局で配達員のアルバイトをして、それで初めてTR-808というリズムマシンとTB-303というベースマシンとディレイマシンを入手して、やっと音楽らしい音楽が作曲できる様になった。

高校では軽音楽部に入ってバンドみたいなこともやっていたが、とにかく作曲し始まって、その軽音楽部に入ってからボーカルができる友人できて、彼と二人でシンセデュオユニットを作って、いろいろなイベントに出たり、ラジオ報道で楽曲が掛けられたりして、高校生なりにもかなり頑張って活躍していた。軽音楽部では3年になって部長を任されたりして、かなり最後の年は面白い学園祭ができたと思う。

学生時代には、この様な感じで音楽三昧の毎日を繰り返していた。その後高校時代に音楽イベントで仲良くなった友人とよく一緒に音楽を通して交流が盛んになり、よく一緒に遊ぶ様になって、その友人とは現在でも相棒と呼べる親友となった。

高校を卒業後に茨城県内で就職を一度してお金を貯めて、その後に一度退職して、その親友と一緒に東京へ出た。そこで最初の年は相棒と住んでいたが、ちょっと一緒に住むにはいろいろ癖があることが分かって来て🤣別々に暮らし始めた。しかし、この時期に始めた二人のユニットで段々と音楽がお互いにレベルアップして行った。

東京へ出てきた時にアルバイトで入った楽器店で知り合った三人組のダンスユニットに誘われて、歌のバックトラックとしてのハウス楽曲を作る約束をして、この時期からクラブ遊びが増えていった。

SONY(その頃のSME)というところとダンスユニットが契約をして、人生で初めてメジャーからCDを出すことができた。複数のクリエイターがいたが自分の楽曲が全体の4割くらいを占めていて、ほぼメインだった。その時のデヴューアルバムがオリコンチャートの100位以内に入ったのは、とても素晴らしかった。

そういう時期に自分の思い描いていた人生が既に始まっていたことは分かったのだが、これが今に繋がる人生観の基礎になっていたのかもしれない。

霊感については小さい頃から有ったとは思うが、高校時代にその霊感を大きく開く儀式をやっていたことを思い出す。

二人組のテクノデュオユニットで油絵を描いたのだが、ブッシュマン族が描いたと言われる「死のシンボル」と呼ばれている印象的な少し気持ち悪い感じの壁画が有って、脚がたくさん生えたタコみたいな怪物の後ろに二人の霊体が掴まっているという独特な絵柄で、それを描いて部屋に飾っていた。それと同じ絵をTシャツにも描いて自分は着ていた。

その後、高校時代にテクノユニットをやっていた頃のある日に特別な神秘体験が起こった。

こんなことは後にも先にも無いことで、いつもの自分の部屋でうたた寝をしていたら、気付くといきなり隣の仏様の部屋と呼ばれている、仏壇のある部屋へ幽体離脱していた。そしてその部屋に有ったオルガンの上に仏様の捧げる御神酒みたいなものが置いてあって、3つの御神酒が並べられてられいた。

これらが部屋にあるのは有ったが、こんな配列で並べた覚えはないのに、何故かとても変な雰囲気だった。すると次の瞬間に自分の右から白い手がヌーっと出てきて「お前はこれを選ぶんだな」と押し殺した様な不気味な声が脳内に聞こえて来て、一番左の御神酒を掴んで持って行ったのだ。

すると今度はいきなり外国の大聖堂みたいなところへその場所が変化して、さっき不気味な声が「ハハハハハハ〜〜!!!!」と笑い出して周りにたくさんの骸骨(髑髏)が埋め込まれていて物凄く呪術的な雰囲気に包まれていて、自分は「うわ〜〜!」となって目覚めて自分の部屋へ戻っていたのだが、その不気味な笑い声は、まだその部屋に残っていて、めちゃくちゃ焦った記憶が今でも鮮明に思い出される。

この記憶は、自分が「死のシンボル」を絵に描いたり、Tシャツにして着たりしていたので、それが原因で何かが始まってしまったことが直感的に分かった瞬間だった。

現在までに、この神秘体験以降に起きた不思議な体験は枚挙に暇がないくらいに多数の体験がある。

つまり、右から現れた白い手が掴んだ御神酒は、この運命を選んだ印と分かるのである。

今体験しているこの世界も、ずっとその時から続いていると分かるのである。ある意味での結界を開いたのだ。その後、幽体離脱を度々引き起こすし金縛りの体験も数限りなく発生していた。

今でこそ金縛りは殆ど無くなったが、東京に住んでいた頃のアパートが戦焼地域だったので、そういう霊体がたくさん集まった場所だった様である。

自分の住んでいたアパートには「15体この建物の下に不成仏霊が埋まっていて、その内の3体がこの部屋の下に埋まっている」と元日本軍の将校の軍服を着た幽霊が現れてテレパシーで自分の脳内へ明確にそのメッセージを伝えて来たのである。

現在では、自分がどうなっているのかというと、もうレベルが全く違うところにまで達していて、世界が自分の思っているところに達して変化して来ているのである。

自分の夢の体験と現実の体験に大きな差が無くなりつつあって、その境界線がクロスオーバーして来ていると表現できる。

自分は神秘体験とは表現するが、恐怖体験ではない。元々は怖がりだったと思うが、結界を開いて実際に体験してしまったら、それらは一切恐怖の対象では無くなったからである。

神秘体験は無数にあるが、一度も経験をしたことがない体験こそが恐怖体験だとするならば、それらの恐怖体験は見えるか見えないかで区別されていて、それまでは見えていなかったから恐怖の対象だったと分かるのである。

人間の視覚情報は、この世の聴覚としての現象のレンジ(周波数帯域)を音響で喩えると、たった1オクターブの広さのスペクトルにしか過ぎない。1オクターブは鍵盤で言うとドレミファソラシドのド〜ドまでの8度(もしくは半音で言うところの12音)しか離れていない狭い範囲に喩えることができる。

如何に人間は狭い範囲の感覚だけに頼っており、見えないものを一切認めていないのかが分かるであろう。

不可視は「存在しないこと」を何も証明していない。

強いて言うなら、不可視は観測者の不認識しか証明しないのである。

捉えて認識できないからと言っても、そもそもが自分の感覚の全てを認識していると思うのは浅はかである。

自分の顕在意識が捉えている現象なんて微々たるものである。視覚を持たなければ、聴覚がより広い範囲で現象を捉え直してくれる。更に言えば触覚や嗅覚や味覚も感覚を拡張する。

人間に備わっている五感だけが全てではない。しかし、その次元を捉える能力はメタ(喩えの)領域にあるので、決して具体的な感覚ではない。

そうは言っても、人間はコミュニケーションの中でメタ認知で言語を発動しているのである。つまりは、メタファー喩え(たとえ)を利用して言語を紡いでいる。

言語がメタファーであると言うのは、元々が象形文字で有った以前に、それらは絵だったのである。

絵は視覚で捉え直した対象物のメタファーである。もし絵でないとすれば、それは表現される前の本物でしか有り得ない。

メタファーとは喩えであると分かれば、本物(オリジナル)以外の表現は全てメタファー(喩えもしくは偽物かコピー品)であると理解できる筈である。

この世は現世(うつしよ)と呼ばれる。つまりは霊界のメタファーとして存在している幻影なのである。

要するに本物は霊界にしかない(現在では少し違う見解だが観察プロセスとしては否定しない→2024年4月現在)のである。

これが表現(メタファー)以外の答えの全てである。

この世の全てがメタファーであるとすれば全部が偽物とも言えるのである。

ここに気付くとこの世の本質に気付けるのである。

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