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シドニー・オペラハウスってやはりすごい!

シドニー、いやオーストラリア、いやいや世界を代表する建物である、シドニーオペラハウス(以下オペラハウス)。

そのオペラハウスだが、昨年(2023年)が完成50周年で、色々なイベントが催された。

ということもあり、最近シドニーオペラハウス(以下オペラハウス)について書かれたノンフィクションの本を読んだ。

オペラハウスについての本はたくさん出版されているが、これはオーストラリア人のライター、ピーター・フィッツサイモンズによる本。たぶん今のところ一番新しく書かれた本ではないかな。

読むにつれ、あの建物が計画、実行、完成されたのは奇跡に近いのだな、という思いを新たにした。

関わった人、時代背景…といった要因が少しでも欠けたらオペラハウスは作られなかっただろうし、作られたとしても現在のデザインにはならなかっただろう。

今の世の中、奇抜なデザインの建物は世界中にあるので、「オペラハウス、実際に見たら余りたいしたことないじゃん」という人もいることは理解している。

それでもですね、もうホント、あの建物に関わるドラマをあげていくときりがないんですよ。

本の余韻が冷めないうちに、ここにメモっておこう…。

特別な場所

まずはですね、あのロケーションですよ。

ベネロング・ポイントという、シドニーハーバーに突き出た半島状の場所にぽつんと建っているからこそ、オペラハウスが引きたつわけである。

3方が海で囲まれていて、そしてその背後にはもう一つのシドニーを代表する建造物、ハーバーブリッジがそびえている。いやあ、何万回見ても見飽きないスポットです。

ちなみに、オペラハウスができる前は、ここはトラムの車庫だった。それを、当時の州知事が(やや大げさにいうと)、「ここにオペラハウスを作るんだ!さっさとその建物を取り壊せ!」と強引に決めてしまったらしい。鶴の一声ってやつですな。

もしあのデザインのオペラハウスがビルの密集している市街地のど真ん中に建てられていたら、それほど感動的ではないと思う。

そしてこの場所が、ホテルやタワマンのような商業施設にならなかったのは本当に幸運なことだったなあ、と思う。

運が良いと、シドニー空港に着陸する前に機内から見ることもできる。
これを見ると、ああ~、シドニーに帰ってきた!と感動します。

落選作から一転しての決定

さて、いざどんな建物を作るのか、を決めるにあたっては、世界中からの公募という形を取ったのだが、実は現在のオペラハウス案は入選作の中にはなかった。
でも、選考員は他の入賞案がどうも気に入らず、ボツの山をもう一度さらって選んだのが、デンマーク人のヨーン・ウッツォンのプランだった。

他の入選案は、こんな感じ。

まあ、こちらの案を採用すれば、もっとすんなり完成しただろうけど、やはり現在のオペラハウスのほうが圧倒的に素晴らしいよね。

試行錯誤

こんなオリジナリティに溢れた案だったが、応募された設計図は簡素すぎて、「これ、実際に建物にするにはどうするんだ…」という感じだったらしい。

オリジナルのデザインでは、ちゃんとした建物として機能させることは不可能だということが判明し、ならばどうしたらいいんだ!とかなり頭を悩ませたようだ。

彫刻ならば外側だけのデザインでいいのだが、オペラハウスともなると、何千人という観客を収容しなくてはいけないし、空調、防音、音響、消火設備…。気の遠くなるような項目をクリアーしなくてはいけない。
ああ、普通の箱型の建物にしておけば良かったなあ…と考えた人は少なくはなかったのでは?

予算オーバー・工期の遅延

こんなオリジナルな建物だから、予算なんてあってないもの。造っていくうちに、経費は膨らむばかりとなった。
ちなみに、当初の工費は700万米ドルを予定していたが、結局かかった費用は…なんと1億200万ドルとなった。すごい差額だなあ…。

もちろん、建物のデザインや施行が錯綜しているわけだから、工期だって守れるわけがない。
とにかくいつまで経っても完成の目処が立たず、1959年着工、完成したのがなんと1973年と、この手の建物にしては恐ろしいほどの遅れとなったのである。

理想と現実

ヨーン・ウッツォンは、理想家肌の建築家だったようだし、それまでこのような巨大な建物を作るといった実績もあまりなかった。設計図を実際に使える建物に変えるという点ではイマイチだったようだ。

また、これだけの大きなプロジェクトともなると、施行者であるNSW州政府や建設会社との駆け引きといった、政治的な交渉術というのも必要になるが、そういう点もそれほど上手くなかったようだ。

そこで、予算が気になる州政府、実際に工事を請け負う設計会社との軋轢がどんどん酷くなり、結局ウッツォンは喧嘩別れのような形でこのプロジェクトから身を引くことになってしまった。

この結果、アイディアは素晴らしいがそれを形にできない建築家というようなレッテルを貼られてしまったので、彼の作品はとても限られている。
結果、オペラハウスが彼の名前を不朽にしたが、その代償は大きかった。

ウッツォンはその後一回もオーストラリアに戻ってくることはなく、よって完成されたオペラハウスを自分の目で見ることはなかった。

政治の道具

この建物は、NSW州政府の事業として進められたので、それが政治的な道具になってしまった。
順調に工事が進んでいれば良かったが、工期は大幅に遅れる、予算は膨れ上がる、となれば、それを野党(自由党)が利用しない手はない。

次の選挙で政権を奪取した自由党政府は、これまでしてきた非難を実行するために建設計画の締め付けに乗り出し、建築家であるウッツォンへの風当たりが激しくなり、それが彼の辞任に繋がった。

引き継ぎ

ウッツォンが辞任した後を引き継いだのはオーストラリア人の若い建築家、ピーター・ホールだったが、やはりこんな独特な建物を途中から引き受けるというのはかなりの大役だったということは容易に想像できる。

批判にさらされながらも結局完成させたわけだが、かなりストレスのある役割だったようで(そらそうだよなあ…)、私生活も投げ打つ羽目となり、寂しい晩年だったようだ。

誘拐殺人事件

オペラハウスが建設されているうちに、痛ましい事件も起きている。

オペラハウス建設資金として、州政府は「オペラハウス宝くじ」を発行し、売れ行きはかなり良かったのだが、その一等賞を当てた家族の子供が誘拐され(その当時は余りプライバシー保護などは考慮されていなかったので、当選者の名前や住所なども新聞などに載ってしまった)、殺害されてしまうという事件が起きた。

これも、オペラハウスを建てるがゆえに起きた悲劇といえる。

やっと完成はしたものの…

すったもんだの挙げ句、オペラハウスは1973年に完成、お披露目となったのだが、やはり中途で建築家が変わったり、予算の兼ね合いもあったりで、内装のデザインはかなり変更された。

そのせいもあり、大ホール(主にオーケストラのコンサート用)の音響はイマイチ、中ホール(主にオペラやバレエ)は狭すぎて使い勝手が宜しくない…などなど、外観は素晴らしいが、実用的なホールとしてはちょっと残念な施設という悪名を被っていた。

過去5年ほどの間、かなり大掛かりな改修工事が施され、特にコンサートホールの音響はかなり改善されたと個人的にも思う。

世界の顔に

というわけで、オペラハウスはとても論争を呼んだ挙げ句やっとのことで作られた建物だが、その効果は言うまでもないだろう。

シドニーを訪れる観光客は、まず間違いなくオペラハウスを見に行くだろうし、建物の有料ガイドツアーはいつでも大人気だ。

そして、音楽や演劇が好きな人なら、ここで催されるコンサートにはぜひ行きたいと思うだろう。実際、僕もしょっちゅうコンサートやオペラを見に行くのだが、明らかに海外からの観光客、といった雰囲気の観衆がかなりいる。

オペラハウスの経済効果、というのがいくらになるかは知らないけど、当初の、「この建物、採算取れるの?」という不安はもう誰も抱かないはずだ。

そして、2007年には世界遺産にも登録された。現在のところ、最も新しい世界遺産だそうである。

僕とオペラハウス

僕が留学するにあたりシドニーを選んだ理由の一つに、「シドニーオペラハウスをナマで見れて、そこで演奏を聞ける」というのはあったと思う(クラシック音楽が好きなので)。

シドニーに着くと、さっそく公演スケジュールを調べ、シドニー交響楽団のコンサートに行った。ちょっと生意気だが、日本でさんざんオケを聴いてきたので、演奏自体はまあ普通だなあ、と思った。

それよりも、オペラがシーズン中は毎日のように催されているのにとても驚き、当時は立見席が2000円ほどで買えたので暇さえあれば(っていうか、当時は学生だったので暇だった)観に行った。立見席は、当日でないと売らないので、良く土曜の朝9時に切符を買いに行き、しばらく時間を潰してからマチネの演目を見に行った。

最近はさすがに自分が本当に行きたい演目しか行かなくなったけど、シティの近くに住むようになったので、オペラハウスは僕のランニングコースの一部となった。

ほぼ週に一回ほどの頻度でオペラハウスの真下を走っているのだが、何回見ても飽きない。本当にすげえ建物を作っちまったんだなあ…と感服する。

あらためて、こんな世界に唯一無二の建物がある街に住んでいるのって素敵だな、と思う。


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