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世界で活躍する日本人。プロサッカー選手を25歳でクビになりそこからアジアサッカー連盟にたどり着くまで【前編】

アジアサッカー連盟(AFC)審判部の全体統括を務める阿部博一さん。25歳でプロサッカー選手を引退後、海外留学を経て現職で活躍中。
前編では、キャリアの背景にある「サッカー選手になるための選択」、「サッカー選手を終えたあとの想定」、「引退後の意思決定と行動」といったファクターに迫ります。

サッカー選手になるために選択して進んだ環境。

今年Jリーグは30周年ですが、まさに30年前にサッカーを始めました。小学校は地元の関原SCというクラブでサッカーをしていましたが、4年生の時に柏レイソルのジュニアユースに移籍しました。足立区から柏まで通いました。当時のレイソルのジュニアユースからはその後3,4人のプロ選手が生まれるほど強いチームでした。ちなみにカレン・ロバート選手は同期です。地元クラブでは中心選手でしたが、レイソルでは試合に出ることができず、人生最初の挫折を味わいました。

そこで中学校は地元足立区のクラブに戻りました。クリアージュFCという、当時は第一期を立ち上げたばかりのクラブです。レイソルで試合に出られなかった悔しさを徐々に克服し、中学生の頃に「なぜ自分がサッカーが好きなのか」を整理できたように思います。
高校進学のときは、サッカーも勉強もしたかったんです。サッカーがそこまで強かったわけではないですが、コネクションのある名物先生がいた、東京工業大学附属高校に進学しました。当時東京都の最高でベスト8、国体候補選手にも入りました。
高卒でプロ選手になりたいと思い、高3のときに湘南ベルマーレに練習参加、アルビレックス新潟のトライアウトを受けましたが、残念ながらプロ選手になることはできませんでした。
サッカーはもちろん頑張りつつも、自分には勉強もありました。どちらかというと、「自分には勉強もある」と、逃げてきた部分もありました。そこで大学進学ではサッカーで勝負すべく、サッカー推薦で道都大学に進学します。
自分にとってはとても大きな決断でした。サッカーしかできない、やれない環境に身をおいたのです。
道都大は当時ほぼ毎年プロ選手も輩出していました。北海道では常に1,2位を争い、全国でも最高でベスト8までいったというレベルです。青森山田や室蘭大谷といった強豪高校から選手が集まっており、チームのレベルは高いものでした。

総理大臣杯(全日本大学サッカー大会)北海道大会で優勝


ただ自分はプロ選手になれずに大学に進学した、という背景だったので「なにか一つ武器になる勉強を」と思いました。それが英語でした。サッカーに専念しつつも独学で英語を学びました。それが後に海外で働く重要なきっかけ、武器となりました。

落ちていってやめたくない。引退は自分で決めたかった。

実は大学四年生のときに、前十字靭帯を断裂し手術をしました。怪我がなくても、プロになれるかどうかはうまくいっても当落線上。大学の最後の一年を怪我でプレー出来ないとなると、プロになるのは絶望的でした。でも、せっかくここまで来たのだから、納得行くまでやりきりたかった。いくつかトライアウトを受けて引っかかったのが、V・ファーレン長崎でした。当時は地域リーグ(当時J1から数えてディビジョン4)でした。
怪我明けだったこともあり、1年目の試合出場はそこそこ。アマチュア契約だったので仕事をしながらのサッカー選手生活を送ります。
サッカー選手になったときに、自分で想定したパスウェイは3パターンありました。

  1. プロサッカー選手として上に進んでいく。海外でプレーしたり、日本代表に入ったりする。

  2. プロサッカー選手になれても、途中でクビになる。

  3. プロサッカー選手にはなれない。

当然、目指すのは1番目のパスウェイです。25歳前後でJ2に行き(注:当時はJ3はなかった)、25歳から30歳までにJ1にいかないと、サッカー選手として上に行くことはできないと考えていました。

地域リーグからJFL(当時J1から数えてディビジョン3)に昇格し、自身も3年目にようやくプロ契約を勝ち取りました。自分の中でこの3年目は勝負の年だとわかっていました。この3年目に成功できなければ、次の道に進もうと決めていました。
でも現実は甘く有りません。選手として3年目、プロ選手として初めての年はそれまでで一番試合に出場したものの、オフには戦力外通告を受けました。いわゆる「0円提示」です。戦力外通告を受けたときの気持ちは、受けたことがある人にしかわからないと思います。

実は、上に挙げたパスウェイのうち、「もしサッカー選手としてのキャリアが終われば留学しよう」と決めていました。
落ちぶれて、追い込まれて渋々次に進むことはしたくない。やめるときは自分の意志でやめようと決めていたこともあったので、クビになったことは引きずらず、次の道を自分で進めようと前向きでした。そういう意味で、未練なくスパッと、割り切って次の道に進むことができたと思います。

V・ファーレン長崎での選手時代

25歳無職。選んだ留学という道。

学生時代から、右足首骨折を2回、また前十字靭帯断裂という多くの怪我、リハビリの経験をしていたので、運動生理学には、自然と興味が湧きました。中学生の頃は、将来、整形外科医になりたいと思った事もあります。他にも数学や科学の勉強には興味がありました。
25歳無職。正直言って学歴も有りません。日本の一般的な労働マーケットでは相手にしてもらえるキャリアでは有りません。
でもそこからなにか人と違った、飛び抜けた存在になるためには、何か突飛な、誰にも理解されないであろうキャリアを進みたいという思いがありました。
漠然と、アメリカのMBAという理想がありました。なぜなら、MBAをとるとお金を稼げるというイメージが合ったからです。ビジネス界のJ1、または世界で活躍出来る人材になりたい。そんなイメージを持っていたと思います。
サッカー選手をしているときにクラブのマネジメント側、アドミン側を見ていても、当時はそちら側で一流になることが想像できませんでした。なので、正直スポーツの仕事をしたいとは思いませんでした。

サッカー選手としてクビを言われたのが11月。海外の大学は9月から始まります。1年も待つのは嫌だったので、大学院に行く前に1年間最初の留学をします。ほぼ日本人のいない環境でした。当時はスマホなどもなく、簡単に日本とコミュニケーションすることもできませんでした。
1年の留学を経て、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCサンディエゴ)の大学院に進学します。専攻は国際関係学。国連などで働くことを考えていました。国連や、そういった国際機関って日本人が少なく、日本人の国際プレゼンスが低いと感じていました。日本はいまだに国連の常任理事国にも入っていません。そのことを勝手に悔しいと感じていました。
勉強はとても楽しかったです。何を学びたいというよりかは、何をしたいか探すためにひたすら目の前のことを学ぶという姿勢でした。専門性を学ぶというよりは国際・政治・国際法などを掛け算で学びました。知的に、刺激のある2年間となりました。日本の大学はサッカー推薦で入学していたので、大学院のときが人生で一番勉強をしたと思います。

サッカーはもうしないと思っていたのですが、現地でも仲間たちとサッカーをする機会はありました。サッカーって便利なツールなんですよね。
アメリカではサッカーはメジャースポーツではないので、サッカーをすることはあるのかなと半信半疑でいたところはあるのですが、実際はサッカーで活躍できれば仲間内でも輝くことができます(笑)。サッカーに限らずスポーツ全般かもしれませんが、ピッチの上に立ったらその人の肩書って一瞬でなくなるんです。お互い呼び捨てだし。みんなが平等で、一緒に一つのことに立ち向かう。そしてわかり合える。サッカーってすごいスポーツです。

就活しなかった理由は「実力があれば向こうから来てくれる」というマインドセット。

UCサンディエゴの大学院では、国際関係学の中でも、特に国際開発を学びました。そこが一番自身の興味に近く、また国連での仕事のイメージも湧きました。当時トレンドになっていたマイクロファイナンスなどに接する機会がありました。大学院一年目の夏休みには、ムハマド・ユヌス博士によってバングラディッシュで設立されていたグラミン銀行で3ヶ月くらいインターンをしました。

卒業が見えてくると、一般的には就職活動を行うことになります。ですが私にはどうも就活というのが性に合いません。大学生の時もそうですが、大学院生のときも身を入れられなかった。だって、就活って自分をよくみせて人に取ってもらう、という活動ですよね。自分は自分を鍛えることに時間を使いたかったので、その時間があるなら勉強したいと考えていました。実力があれば向こうからきてくれるだろうと、ある意味ふざけた考え方もしていました。
当時、UCサンディエゴの大学院のエグゼクティブボードのなかに、三菱総合研究所(三菱総研)の社長がいたのですが、日本人学生とディスカッションする機会があり、そこで自分の事を面白いと言ってくれて、日本に帰ってくる機会があれば三菱総研でインターンしなさいとお声掛けをいただきました。
UCサンディエゴは東京大学と交流留学プログラムがあり、日本の最高学府でどんな教育がされているのかに興味があり、当時仲良かったアメリカ人の同級生と、大学院の最後の半年は東京大学で過ごしました。逆留学みたいな形です。半年間、東京大学で勉強しながら三菱総研でインターンに参加しました。ちょうど2013年、インターンをしている頃に、東京オリンピック・パラリピックの招致も決まりスポーツの案件も増えていました。そんな縁もあり、最終的に三菱総研に就職することになりました。
29歳。新卒としての中途採用という、良くわからない採用枠です。話は少しそれますが、サッカーに限らず「30歳元アスリート」のキャリアという問題・壁は日本社会のどこにでもあります。自分はこの問題にこれからライフテーマとして関わっていければと思っています。

三菱総研 研究員として

話を戻します。三菱総研に入社するわけですが、社内では理論年齢というのがあり、大学院卒24歳として扱われます。プロジェクトにもアサインされるしノルマも課せられました。入社後、新卒とのギャップも感じました。もっとガツガツしないといけないと感じることもありました。三菱総研では官公庁の委託事業や、オリパラの協賛案件などに関わりました。とにかく稼ぎたかったのでなりふり構わず働きました。
UCサンディエゴ時代には、日本のことを題材に学ぶ機会があったのですが、そこで「日本は終身雇用、年功序列、労働組合」と紹介されていました。帰国して1年半くらいでその現実を目の当たりにし、それは自分の価値観には合わないものだと再確認しました。正直このまま日本の企業で働き続けるのか?という思いも湧き始めていました。
仕事の一部でJリーグに営業に行くことも有り、「ガツガツしないといけない」という思いもあり、当時Jリーグがマネジメントに関する人材育成事業を始めるという話があり、Jリーグヒューマンキャピタル(現:スポーツヒューマンキャピタル)を1期生として受講することにしました。

<後編に続く>

阿部博一(あべひろかず)さん
アジアサッカー連盟審判部統括マネジャー(Referees Department , Head of Operations)。
東京都出身。大学卒業後、V・ファーレン長崎と契約。プロ選手として3年間プレーした後、戦力外通告を受ける。25歳でカリフォルニア大学サンディエゴ校に進学、国際関係学修士を取得。帰国後は三菱総合研究所へ入社。スポーツ及び教育分野の調査案件に従事。2016年より現職。
Twitter : https://twitter.com/Hirokazu25

(取材・構成:SXLP1期/太田光俊)

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