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『美女と野獣』と悪役ガストン

アニメ版『美女と野獣』を観た

 先日、子どものころよく観ていた『アラジン』の実写版を映画観で観たのをきっかけに、僕は『アラジン』の悪役ジャファーの中間管理職のような立場にシンパシーを感じ、彼が打倒されたことに涙した。なぜジャファーは打倒されなければならなかったのか。戻ってきてくれジャファー。

 VHSビデオでディズニー映画に親しんでいたときから、20数年が経つ。先述したような、ディズニー映画や悪役に対する認識の変化は、いったいどれほどのものだろうか、と僕は考えてしまった。僕もずいぶんと、自身や社会、自分をとりまくものへの負の感情を知るようになったので、もしかしたらジャファーのようなシンパシーを感じることのできる悪役がいるかもしれない、映画そのものへの認識が変わってしまうかもしれない、と思うようになったのだ。

 そういうわけで次に視聴したのが、アニメ版『美女と野獣』である。

 この映画も子どものころ何度も観たが、「なんか綺麗なお姉さんがお城に閉じ込められているうちに野獣と仲良くなって、野獣の魔法を解く。マッチョな悪役が谷底に落ちて死ぬ」くらいの認識でしかなかった。

 しかし、30歳になる年になり、恋だとか愛だとかの機微を、子どものころよりも少しだけ感じ取れるようになった今、『美女と野獣』はその輪郭をはっきりとさせて僕の心の中に飛び込んできた。

 以下では認識の変化があって印象的だった部分をまとめていきたいと思う。

※実写版『美女と野獣』はまだ観ていません。

変わり者の美人ベル

 子どものころに観たときは、主人公の、かわいらしい女の人くらいにしか思っていなかったが、町の人たちから見る彼女は変わり者に見えるというのが驚きのポイントだった。

 町はずれのよくわからん発明家の娘で、本をよく読み、空想に耽り、町いちばんのハンサムでみんなの憧れの的のガストンさんの求婚をあっさりと断る。あと、この時代(1750年くらい)のフランスあたりでどの程度の逸脱かよくわからないのだが、ベルは父のピンチに迷うことなく乗馬でかけつけることができる女子である。

 特に、本を読むことについては、貸本屋(?)のおじさんはベルを快く受け入れていたが、ガストンが「何の役に立つ」とか何とか言っていたのを考えると、あまり女子がするのにふさわしい趣味だとは考えられていなかったようである。

 思えば、この「らしさ」に対する認識のズレのようなものが、ガストンが敗北する理由だったのだろう。

くそかわいい優しい野獣

 野獣が最初からずいぶん優しい。

 記憶の中ではもっとベルを怖がらせたり脅かしたりしていたと思っていたのに、家臣たちにたしなめられ、説得されて(まずこの時点で家臣たちに押し切られていてかわいい)、ベルを良い部屋に移してあげたり、しょっぱなから晩餐会に招待しようとしたりしている。

 なんだったら最初にベルの親父を逃がしてやるときの要求が「ずっとここにいろ」と言っているし。告白かよ。きっと彼は最初から誰かに受け容れてもらえることを望んでいたのだろう。

 笑ってしまったのが、最初にベルを部屋に連れて行ったときの「晩餐会も一緒にどうだ?来なくてもいいぞ!(バタン!!)」だ。お前、それは照れ隠しにもほどがあるだろ。デレの前のツンギレ状態。かわいいにもほどがある。

 西のはずれの部屋に勝手に入ったベルを追い出した後、襲われているベルを助けにきたシーンには、なんだか胸が熱くなった。

地獄へ落ちろガストン

 そもそも『美女と野獣』を観なおそうとしたのは、悪役のガストンがどんなやつだったかを再確認したかったからだ。僕にはジャファーのような屈折した友人が必要だった。

 それが蓋を開けたらどうだ。

 なんだこいつは。

 登場して間もないうちから、僕は「こいつ早く谷底に落ちねえかな」と思ってしまっていた。

 人の話は聞かないし、拒否されてもずかずかと人のパーソナルスペースに上がり込んでくるし、人が持っている本を泥水のなかに落として人の趣味を全否定するし、開いている本の上に土足を投げ出すし、狡猾だし、住民を扇動するし。なんでそんなに自分に自信があるのか。吐き気がする。

 と、ここまで考えて思い至ったことがある。

 ガストンのような人間は、現実にも、珍しくないくらい存在するのである。

おかしいのはベル親子の方かも

 たぶん実写版の『美女と野獣』が出たあたりで散々行われた議論だろうが、自分の言葉でも書いておきたい。

 映画『美女と野獣』において興味深いのは、圧倒的なマジョリティの力を持っているのは、ガストンの側だ。変わり者のヤバい奴らは、日がな一日よくわからない発明をしている親父と、その手伝いをしているベルなのだ。

 そんな町はずれの風変り親子が森の中に行って帰ってきたと思ったら、親父は城の中に野獣がいたとか言って触れ回るし、娘はその野獣は心優しいのだとか言って恋をしちゃったような声色を使うし。たぶん現代でも似たようなことがあったら、真っ先におかしくなったと疑われるのはベルたちの方だろう。

 考えてみてほしい。超常的な野獣ではないにしても、熊とか、それに類する獣が身近にいて、狂ってしまった娘っこが「この人は優しいの」と言って戻ろうとするのであれば、人々は当然色めき立つだろう。

 あのときガストンは人々を扇動するような形で夜襲の歌をうたい、城へ乗り込んでいったが、町から出るまでの彼は、あの時点ではベルを手に入れるための方便として野獣討伐を考えたのではなくて、本当にマジで自分達に害をなす危険を排除しに行ったのではないかという可能性さえあると思うのだ。

ジェンダーロールの遂行者

 彼の周りには、いつも多くの人々がいた。醜悪なほど自分のやっていることに自信があり、力を誇示し、乱暴で、強引で、人の話を聞かない彼の周りには、常に一緒に酒を飲む仲間や、彼を讃える人が絶えなかった。彼に惚れている3人の娘たちは、彼になびかないベルが信じられないといった様子だった。

 こんなことがあるだろうか?

 ある。

 ガストンは、その時代の、理想とされる「男の強さ」のジェンダーロールを遂行しきってトップに上り詰めた実力者なのだ。その時代の「男らしさ」の頂点を極めた男を、みんなが尊敬している。特定の社会規範のなかで生きている人々が、その社会規範の理想とされている人間を讃えるのは、当然のことだ。そんな男を外からの視点で「醜悪だ」と断定できるのは、新しい時代の、もしくは新しい種類の価値観を持った人間だけだ。

 現代にもいるだろう。人の話を聞かなくて、自分の価値判断の基準になぜか絶対的自信を持っていて、その基準から外れる人間を無邪気に全否定してしまえるような人々が。熟考もなく吟味もなく「普通は〇〇だろ」と、言ってしまえるタイプの人々に、あなたは思い当たらないだろうか。

 それは、より「らしさ」に適合してきた、力のある人々ではなかったか。

 ガストンはそうした「らしさ」が支えるマジョリティの代表であり、彼との闘いは、抑圧的・排他的なマジョリティの価値観との闘いだったのではないか、と僕は考えたのだ。


 ・・・しかし、そう考えると、ガストンもまたジェンダーロールに縛られた被害者ということにはならないか?

 もしかしたらあの状況でガストンが敗北したのは、単に、相手が悪かった、というだけのことだったかもしれない。

 ガストンに対して優しすぎるだろうか。

総評

『美女と野獣』は美しい物語だなと思った。

 醜い獣の姿(慣れると愛らしい)に変えられ、自意識がねじくれてしまった男の心がやさしく解きほぐされる。

 悪いことが起こると野獣が自分の醜悪な顔を手で覆って哭くとき、僕はその気持ちがよくわかるような気がした。自分の手では脱ぎすてられない、どこまでもまとわりついてくる肉体は、哀しいだけなのだ。だんだんおっさんの身体になっていって後戻りできないことに最近気づいた僕も泣きたくなった。

 しかし、改めて、肉体(外から見た印象)を変えてくれるのは、心なのだということを、この映画は教えてくれる。あと少しで両想いになれるというところでベルを自由にした野獣が、執事頭に理由を問われ、「愛しているから」と答えたときの美しさは、おそらく長く僕の心に残るだろう。

 心の在り方は、肉体を超えるのだ。


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