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受験体験記と浪人生活

正直、受験のコンプレックスを私ほど抱えている人は少ないと思う。バイトやサークルで、浪人していることをいじられてもヘラヘラ笑ってはいるものの、心の中ではちょっぴり傷ついたりもしている笑。笑わないとやってられないな。
この体験記は、割と暗い話が続くので、ふーん、そういう人もいるのか、という軽い気持ちで読んでいただけると嬉しい。

現役時代
中学1年生の頃から、将来の夢は医師になることだった。元々のきっかけは、お恥ずかしながら、ドラマ「コードブルー」を見てただただそのかっこよさに憧れたことだ。ただある時、白血病を患っている小さな子供たちが必死に闘病生活を送っているのをYouTubeで見て、その子たちを救いたい、その子たちが不自由なく学校へ行き、走り回って笑いあって、幸せに暮らせるようにしてあげたい、と強く感じた。中部地方に住んでいたこともあり名古屋大学医学部医学科を目指していたが、高校1年生の時、京都大学iPS細胞研究所を訪問させていただいた際に、ここで研究したい!と強く感じ、それ以来、京都大学医学部医学科(以下、京医)を視野に入れてがむしゃらに勉強してきた。高校3年生になると、学校祭のクラス劇の役者として練習(夏休みは1日5時間くらい、監督の子は1日10時間くらい指導してくれていました、ありがとう!!)もしながら、受験勉強も並行して続けるという形で、毎日睡眠時間4時間で頑張っていた。現役の強さだと思う。そのおかげか、夏の京大模試では医学科B判定とB判定、秋の京大模試では医学科C判定とA判定をとることができた。まさに努力が報われるってこのことか!と、正直受験生時代の絶頂にいたと思う。ただ、この模試結果こそが後に続く浪人時代の元凶となった。というのも、模試の判定に安堵した私はそのまま京医につっこむことにしたからだ。ここでもう一度よく志望校を考え直すべきだったのだと思うけれど、正直そんな余裕はなかった。1秒も無駄にしたくなかった。
そして迎えた京大の2次試験、化学がちょっと難しいな……と感じながらも普段の模試、またはそれ以上の手応えを感じていた。合格発表までドキドキしながら待つ2週間。ただ落ちるなんて思っていなかった。でも、3/10に107番は無かった。その瞬間から、今まで見てきた世界とは全く違う真っ暗な世界に落ちていく気分だった。ご飯は食べれず、泣きつづけて、寝つづけた。毎日朝起きて落ちたという現実を受け入れるのが怖かった。うつ病だった。友達の連絡先も全てブロックした。友達の合格報告の投稿を一通り見てInstagramもTwitterも消した。先生の連絡も無視した。いつも同じくらいの成績で仲良く競い合っていた友達は皆現役で東大に受かっていった。私も東大受ければよかった……と思わなくもなかった。ただ、そんな私の味方に常に居てくれたのは母だった。忙しい仕事を休んで、何も言わずそばにいてくれた。ありがとう。

高校のころ親しくしてくださった先生がアフタヌーンティーに連れて行ってくださった。何を話したか覚えていない。でも先生は私の話をひたすら聞いてくれた。たぶん、受験とは関係ない話ばかりした気がする。素直に楽しかった。ありがとうございました。

そして、これだけ努力して仕上げてきた私が負けた相手の強さを知った。京医に受かる人達の優秀さを思い知った。未だにただただ彼らを尊敬している。素晴らしい医師になって人々の幸せな生活に貢献していただきたいなと心から思う。

私は小さい頃からずっと優等生を演じてきて(反抗もしたかったけれどとりあえず先生の言うことは正しいと信じていた)、ほとんど誰にも負けたことがなかった。言い換えれば、挫折を味わったことがなかった。しかしここで、18年生きてきて初めて、18歳の心で対処するには大きすぎる挫折に直面した。大きな失敗・悲しみ・苦しみを経験したことがなかったからこそ、いきなりの大きな挫折が余計に私を苦しめたのだと思う。

現役時代、京医しか受けていなかった私は、こうしてもれなく浪人生活へと進むことになった。

浪人時代
4月は、ひたすら泣き続けた。勉強なんてもちろんしなかった。他のクラスのグループLINEで私の悪口が流れているという噂だけ知人から聞いた。もう追い討ちかけないで、ほっといて、、と泣いていた。ただ、アルバイトを始めてみた。ほとんどの塾講師のアルバイトは大学生以上、が条件だが、私が応募したところだけは、フリーター可と大々的に書いてあった。そうか、私はフリーターなんだ。どこにも属していない居場所のない人間のレッテルを貼られている気がして少々悲しかった。でもおかげでバイト先という居場所ができた。こんな私を雇ってくださった塾長さんありがとうございました。また、たまたま、中学校の部活の先輩がその塾で働いていた。久しぶりに話した。受験とは全く関係ないたわいもない話。そんなくだらない話が私を元気づけてくれた。ありがとう。5月、教習所に入った。ほぼ毎日通った。先生たちには、夜間の専門学校に行っていると思われていた。まあそうだよね、まさか浪人して病んで教習所来る子なんて居ないよね、と1人で勝手に納得していた。教習所の学科で先生の授業を受けた。人の授業を聞いて勉強するのは久しぶりだ。悔しい……学ぶって面白いな……。技能の勉強では、教習所の様々な先生とお話した。先生たちは様々なバックグラウンドを持っており今まで知らなかった世界が沢山見えてきた。ここでも受験からキッパリ離れられた。ちなみにイケメンの先生にも出逢えた。教習所の先生方、ありがとうございました。5月末、そんな楽しかった教習所を卒業。またひとりぼっちになった。ただ、実は、現役の頃にとても仲良かった子が浪人していた。彼女と長島スパーラードに行った。一日中笑いあって好きなだけ食べて好きなだけ乗り物に乗って、今mv^2/rの力がかかってるね、なんて笑いあって、彼女の存在が、言葉では表せないほど大きかった。本当にありがとう。彼女とは受験まで、頻繁に電話しながら勉強した。(もちろん彼女も第1志望の京都大学工学部に合格した。)6月、7月、気象予報士試験の勉強をしてみた。元々物理と地学が好きだったので意外とハマった。合格率5パーセントの中何故か1発合格できた。問題がたまたま良かったみたい、ラッキー。またもや思った。勉強楽しいな……悔しい。
実はこの時期に少しだけ立ち直ってきていた。時間が解決してくれた。1年浪人するということは神様が別の道を勧めてくれていたのかも、医学科とは程遠い東京大学理科一類を受けようと決めた。(と言ったものの1月まで名古屋大学医学部医学科とずっと迷い続けていた)8月、東大の冠模試があった。もちろんほぼ半年間何も、勉強していない中で受けに行った。久しぶりの模試。周りのみんなが勉強している。問題が解けた時の爽快感、文章を読む楽しさ、物理の面白さ、蘇ってきた。ああ、やっぱり勉強好きかも。
9月以降は少しずつ勉強を進めた。共通テストもうまくいった。2次試験も普段通りできたと思う。
合格発表までの2週間はとてもとても長かった。その頃にはすっかり立ち直って、現役で東大に入った友達と電話して、楽しい話をしたり、不安をうちあけたりした。ただちょっぴり悔しかった。そして3/10 12:00。東大のホームページにたしかにA4262はあった。1年前の3/10とは、全く違う涙を流した。素直に嬉しかった。


東大に入ってみると、まわりは私より優秀な人たちばかりで、勉強で秀でているだけではなく、課外活動や部活動に熱心に取り組んできた人たちもたくさんいる。尊敬の日々、学びの毎日。ただそんな中で精神的にちょっと辛くなる人もいるかもしれない。もちろん東大以外の大学生、更には、中高生や社会人でもメンタル的にしんどくなる人はいると思う。そんな人達に寄り添うことは、東大の中で誰よりも上手に出来ると思う。私自身も同じ経験をしたから。誰か信頼できるまわりの人にそのしんどい気持ちをうちあけてみよう。人に話すって大事。出会いって大事。もし逆にそのような辛い状況にいる人から相談を受けたら、まずは肯定して話をよく聞いてあげて欲しいなと思う。浪人時代に、私を雇ってくださった塾長、たまたま再会した中学の部活の先輩、教習所の先生方、一緒に浪人した友達、そして父、母、全員に感謝の意を表してこの受験記をしめさせていただきたい。冗長な文章をここまで読んでくださってありがとうございました。受験生ファイト!🔥

1時間で3500字書き連ねてしまいました……。誤字脱字などありましたら申し訳ありません。また、読みやすさの面から丁寧語を省略した点についても申し訳ないです。



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