屠る
約束のネバーランド
気になっている漫画・アニメである。
1話を見て、「どんな戦略を立てハウスを抜ける『鬼ごっこ』が繰り広げられるのだろうか」とわくわくした。
だけど、2話以降を見ることができていないのだ。
他にも気になる作品があることが理由ではない。
抑うつ状態で気力がないからでもない。
エマ、ノーマン、レイたちは“畜産動物”で、
ママは“畜産農家”で、
鬼は“私たち”
であるということに結びついてしまったからだ。
エマたちが脱走することとは、飼育舎から動物が生きる権利を求めて逃げることであるが、現実ではそれが許されない。
なぜ、畜産動物は生きる権利を持たないのか。
その理由もわからずに、この作品を受け止められるのか、と葛藤している。
※約束のネバーランドを否定する意図はございません。
『いただきます』 は
料理を作ってくれた人、食材を運んでくれた人、食材を〈収獲/収穫〉してくれた人、食材を育ててくれた人……と食事に携わった全ての人への謙遜(敬意)
目の前のお皿に乗っているかつて生きていた動物たちの命を頂く
という意味があるということは小学生の頃には教わっていた。
もちろん、飼育小屋や動物園、牧場で見た“あの”動物(と同じ種)が殺され血を抜かれ切られ刻まれ、スーパーに並んでいるというのはわかっていた。
でも、生き物から食材になる過程は具体的には知らない。知ろうともしなかった。むしろ知りたくなかったとも言える。
[動物を虐待することは犯罪です]というポスターが掲示されているのを一度は皆見たことがあるだろうが、動物を傷つけることは犯罪である。
でも、牛、豚、鶏などははじめから食べる=殺すことが前提で飼育されているのだ。
矛盾が生じている。なぜ、牛、豚、鶏は殺してもいいのか。
さらにエゴイストの三穂は、生きている牛、豚、鶏を見て「かわいい!」と思いながらも、お肉が好物なのである。
この上ない矛盾だ。鬼畜だ。
このエゴイストは、 ヒトが雑食であり、ヒトという生物として生きていく上で必要なことだから と結論づけた。
食物連鎖の一部だと私の中で解釈している。
命を頂いている以上大事に大事に食べることが精一杯の供養であると思っている。
そんなことを感じて1年くらい経つのだが、やはりモヤモヤしている。約ネバはまだ見れない。
作家・エッセイストのyuzukaさんの私は一ヶ月後、この牛を殺します。〜私がヴィーガンにならないと決めるまで〜
という記事に出会った。
これは私が感じていたモヤモヤを晴らしてくれる記事だと確信し迷わずクリックした。
吸い込まれるように読み進めた。
途中添付画像を見ることはできなかったが、じっくりと最後まで読んだ。
ここまで今までの思いや出来事をつらつらと書き出してきたが、この記事(現実)に対してなんと言ったらよいかわからなくなってしまった。
とても、複雑な思いでいっぱいである。それでも、あのモヤモヤはチンケなものになった。
だから、これまで以上に大事に食事しようと思います!
…………こう言うと、あまりにも拙い。
yuzukaさんのように牛たちと向き合うことは三穂にはできないが、スーパーやレストランで提供されるお肉の見方は変わりそうだ。ここに在るお肉はどんな道を辿って来たのかを以前よりかは想像できる。お肉のルーツを知ることで、畜産動物の苦痛を逃がす道を見つけ出すことができるかもしれないということもわかった。目を向けることはできなくても、少なくとも屠ることをグロテスクという言葉で片付けてしまってはいけないことであると強く認識する。
三穂はこれまで何百頭も屠って今が在る。この現実を知った上で、動物保護の観点からはヴィーガンやベジタリアンにならない且つこれからも食肉加工センターに頼って何百頭も屠り自分の命を燃やしていくことを選択する。
今後生きていく中で考え方が変わるかもしれない。それでも人間が動物の命を頂いて生きていることを忘れずに食事をしていきたいと思う。
食べるは「人を良くする」なんていうポエムがあるが、たくさんの命を感じて社会や動物たちと共に良くなっていきたいものだ。
みのりもちこ
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