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名付けて衣類手記第17話【後ろめたさと傲慢さ】

久しぶりの更新です、今日の絵はオリジナルマスコットのいもネズミ。

日々の生活で、着々と考えや思考を更新しています。
この調子で、手持ちのカードを増やしていこうと思います。


僕は時々、ASD当事者であることをとても後ろめたく思う。
様々な困った特性や、周囲の方々へ沢山の配慮をしていただかねばならない事実、僕たち障害当事者はサポートをする側の事を忘れてはいけないと思うのがその所以です。

例を出すと、至らぬ点を指摘されたり、何らかの意見を頂くことは人生多々あるだろう。
しかし障害当事者の中には不安定なメンタルが邪魔をしているのか、意見を批判と捉えてしまったり
指摘は否定と考えて、異様にガルガル噛みついたり、また極端に傷ついた態度を振りまく人も少なくはない。。

「障害なんだから仕方ないじゃん」で突っぱねられれば気楽な人生かもしれないが
いつだってそういう障害の特性やメンタルの薄弱さに割を食うのは、サポートをする立場の人間なのだ。
家族でも支援員でも、障害へ配慮する側の人間はとても神経を使うだろう。
しかしASD当事者の僕の目から見ても、それに対するリターンが無さ過ぎるように思える。
特に仕事にしている人は、特段お給金が多いわけでもないのに
障害という特性を傘に大暴れしている相手にも、繊細な配慮を心がけなくてはいけないと、いくら当人が選んだ仕事とはいえ
配慮される側の僕らが面倒しかかけない上に相手の事を顧みないとなると
仕事を人質しているようなものだ、やりがいの搾取ともとれる。
(もちろん、僕が福祉に携わる人たちをはたから見た感想でしかないのだが)

ただ、後ろめたく思うのは卑屈になることと同じではないことは、理解しなければならないし
僕はこの手記で、障害者に卑屈になることを推奨している訳ではないのは伝わって欲しい。

後ろめたく思った後、故にどのように改善しようか。
改善できない障害の症状だとしても、努力する姿勢くらいは見せないと配慮してくれる相手に悪い。
そのうち、改善に至らなくても落としどころを見つけて寛解できるかもしれない。
と、前向きに考えられるためにも、自身の障害に少しの後ろめたさは必要だと僕は考える。

障害に対してコンナニキヅツイテアテクシカワイソウシクシクとなるだけではただの卑屈で、そんなもんは腹の足しにもならんと気づいたので僕は早々に辞めた。

自分を愛せない人は人からも愛されまい。
自分が愛せる自分になるため、傲慢さを自己憐憫で隠すようなやり方ではなく
正しい後ろめたさを身に着けていきたい衣類でした。

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