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趣味と夢の世界

今日は仕事が終わると、私はファンシーショップに久しぶりに行った。
四十代男性の私がなぜそんなところへひとりで行ったかというと、職場の老人ホームの利用者に敬老のプレゼントのおカネが市からなのか県からなのか知らんが出たため、私が担当しているふたりの寝たきりのおばあさんに、プレゼントを買うためだ。費用はひとり千円まで。初めは寝たきりだから、クッションなどをプレゼントしようと思ったが、それは去年やっているので、本当に精神性のあるプレゼントにしようと思った。精神性などと大げさな言い方だが、つまり、ぬいぐるみなどにしようと思った。
店に入ると、まず、クッションや膝掛けなどが目に入った。「膝掛けか・・・」と心が動いたが、千円以下はなかった。やはりぬいぐるみにしようと思った。そのファンシーショップは半分が普通のおもちゃ屋になっていてそちらに行くと、ポケモンやトトロなどのぬいぐるみがあった。しかし、どれも高かった。私はファンシーショップのほうに戻ってうろうろすると、猫のぬいぐるみがあるのが目に入った。「いいな」と思い、値段を見ると高かった。しかし、千円以下のものは非常に小さく、野球ボールよりも小さかった。「もうちょっとボリュームのある方が・・・」などと思って、まあとりあえず保留にして他を見に行った。見ているうちに私はだんだん楽しくなってきた。若い頃の夢見る心が蘇ってきたようだ。「そんなものは夢に過ぎない、よしもう一度」などという、ニーチェの言葉をもじった思いが芽生えてきた。
私は、自分の部屋を趣味と夢の世界に飾り立てる人を、教養がない人と見下してきたが、いや、そっちのほうが人間として重要なのではないかと、店の中で思った。私は教養が欲しくて読書をたくさんしたが、部屋の中は本ばかりが増えていった。それが教養のある人間の部屋だと考えた。しかし、自分の部屋というものは自分の居心地がいい場所にするべきで、自分の夢を否定するような心を不安定にさせる本などが置いてあるのはあまり意味のないことかもしれない、もしかしたら、利用することのないオブジェとしての地球儀があったり、書棚に少ないながらもある本が読めない外国語の写真集だったり、壁には外国の絵や、海辺の景色のポスターがあったり、天井から飛行機の模型がぶら下がっていたり、そういうことのほうが重要なのではないかとこの店で思った。それが個性だと思った。
個人は趣味と夢でできている。深い言語的哲学思想などよりもずっと、イメージの趣味と夢のほうが個人の多くを構成している。その趣味と夢は深い精神世界ではなくその表層に過ぎないが、その表層に留まることの方が、頭を柔軟にし、他者を思いやることができるのではないかと思えた。ある宗教と、また別のある宗教にどっぷり浸かったふたりが思想の相違を乗り越えるのは難しいことだ。しかし、思想の表層しか撫でていない人物は相手を思いやることができる。思いやるのは相手の思想的深みではなく、表層に現れる感情である。
結局、私は風呂用のスポンジのぬいぐるみ、ペンギンとイルカを買った。ひとつ九百九十円だった。

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