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学歴差別

私は昨夜、布団の中で駄文を打っていた。眠れないと枕元にある充電中のスマホに手が伸びる。以下のものがその駄文だ。

この中で、中卒の気の強い無学な人に、大学の哲学科を出ている人でも内向的であると議論に負ける、と言うようなことを書いた。これは私が大学の哲学科を出ていて、それなりの学歴があるのに、地元の老人ホームで、介護職員として働いていることを念頭に書いた。介護職員というのは学歴は高くない。職場では私が一番学歴が高いことになっている。私は精神を病んでいるが、周りの人より高学歴であるというのにすがっているようなところがある。私の職場には中卒はいなくて、高卒の人がほとんどだが、彼ら彼女らの頭が悪いとは思わない。ただ、私が学習環境のいい家に生まれたからだというだけだと思う。私の両親は両方教師で、当然、息子の私には良い教育を施そうとしたに違いない。私は三人兄弟の長男だったから、弟たちよりも余計に厳しく育てられたかも知れない。次男は大学院を出て大手企業に就職するという、まあ、エリートなコースを歩んでいる。三男は、末っ子のせいか、母親が甘やかして育て、そのせいか勉強ができなかった。それもそのはず、小学生の時など、母親がやれと言った計算ドリルを、後ろにある答えを丸写しして、それを母に見せて褒められていた、その姿勢では伸びない。私の職場のある高卒の女性職員に訊いたら、「私もそうしていた」と言う。その女性職員は頭が悪いわけではない。私より仕事ができる。我が末の弟も頭は悪くない。でも、勉強ができなかった。そこには人生に対する幼い頃の態度の違いがある。私は数学の問題が解けなかったりすると、悔しくて、泣いたり怒ったりしていた。だからがんばった。悔しく思わない奴は伸びない。しかし、弟の名誉のために書いておくが、彼は絵が非常に上手く、手先が器用で、美容師になった。全国のコンテストで銀賞を取った自慢の弟だ。となると、最終的に兄弟の中で一番できないのは私になる。高校二年で統合失調症を発病し、一浪して大学の哲学科に入り、留年を一回経験して、二十四歳で大学を卒業し、二十代は定職につかず、パートの肉体労働などをして過ごし、三十四歳で、現在四十四歳でも続けている介護の仕事に就いた。さんざん子供の頃から頑張って、その結果が介護士か・・・いや、これは介護士を低く見ている。いや、そもそも国が低く見ている。介護士の人材が足りないから、海外に人材を求めるが、それがなぜか発展途上国の人が多い。フランス人とかじゃない。社長がフランス人とかいう大手企業もあるそうだが、日本の介護職にはハーバード大卒とか来ないと思う。これが私が身近に感じる学歴差別だ。いや、それは私の中だけにあるのかも知れない。世間にもそういうのはあるのだろうか?そういえば、内閣の人事が決まったとき、新聞に絶対に最終学歴が出る。あれ、やめたほうがいいだろう、新聞社の人たちよ。最終学歴なんて年寄りの政治家にとって何十年前の成績だろう?私は大学卒業後も頑張っている。頑張っている成果はまだ出ていないけど、学歴というのはどの学校を出たとかじゃないだろう?人生で何を学んだかだろう?そうなると中卒も大卒も同じ人間で、学歴というはかりが、別の秤に置き換わる。どれだけ勇気があるか、という秤にしたら、臆病者はどんなに勉強でいい点数が取れても、臆病者だ。絵が上手いか、という秤にかければ、ノーベル賞を受賞する物理学者とかもデキの悪い子かも知れない。学校のいわゆる五教科、国語、数学、英語、理科、社会、これらのみを秤にしていたら、やはり世の中は偏るだろう。いや、最近の受験はそうでもないのだろうか?私はよく知らない。しかしながらこの弊害は、一般人の中に染みこんでいる。テレビのクイズ番組に、この学歴差別が繰り返し登場し、高学歴なタレントがその強さを見せつけるようなものがよくある。高学歴な人ほどそういう番組は見ないと思うが、多くの人が高学歴なタレントが次々と正解を出していくのを見て、「あ、やっぱり、あの大学を出ているから頭がいいんだ」と認識する。しかし、クイズ番組で、五教科の知識に偏ったものは、知っているものからすると、バカみたいなものに見えると思う。私もそういうクイズ番組を見たとき、わからない問題があると、その答えを見てなるほどと、思うのだが、あとになって、そのクイズ番組を見た時間を振り返り、「あれは何の時間だったのだろう?」と思う。内容が薄いのだ。賢い人はああいう番組は見ない。私も賢くなりたいので見るのをやめた。その時間をもっと有意義なものにしたほうがいい。勉強や読書に限らず、自分の人生を生きたほうがいい。ああいうテレビ番組をだらだら見る生活が一番価値が低い。テレビの時代は終わったと思う。
さて、学歴差別の話だった。今、テレビの話をしたが、テレビをだらだら見るのは、日本人の場合、同じ番組を見る人が、何千万人いるかわからないが、相当数いる。それゆえ、テレビが常識となり、その常識的世界観を持ったのが日本人だと錯覚する。あるいはマンガでもそうだ。私の同僚で「『ワンピース』を知らないのは非国民ッスよね」といった男がいる。たしかに『ワンピース』は人気があるマンガだ。しかし、それに夢中になっている男たちは、それが日本人全員が知っていて当たり前なマンガであると錯覚する。あれは一部のファンのものだ。それはすべての娯楽、芸術に言えると思う。スタジオジブリも日本人の良心ではない。しかし、そうなると何が日本人の共通の常識になるか、それが国民統合の象徴としての天皇のことになるのかもしれない。私は天皇崇拝者ではないが、たしかに、全国民が知っている人って誰だ?となると、天皇陛下かも知れない。人気タレントではない。
いや、学歴差別の話が脱線しまくる。そうだ、学歴差別も本来は一部の人が持っている価値観であるべきなのだ。多くの人はそんなものに縛られず生きているはずだ。しかし、その差別を制度の中に取り入れているのは良くない。例えば、私の持っている国家資格で社会福祉士というのがあるが、これは福祉系の大学で資格のためのカリキュラムを修めなければ、受験資格は得られない。受験で合格点が取れるだけのものを持っていても、学歴がないと受験資格が得られない。これは資格が開かれていない例だ。いや、もっと簡単な例がある。それは就職採用条件だ。大卒のみとか、高卒以上とか、そんな条件がつけられているために優秀な中卒が、愚鈍な大卒に負けることになる。いや、もう採用の条件などで学歴を求める企業はないのだろうか、これは私の時代錯誤だろうか?新卒というのもムカつく言葉だ。私のように二十代をパートの肉体労働で過ごした者はどんなにその間に多くの書物を読んだとしても、大学で四年間遊んだ新卒の方が優遇される。これも時代錯誤か?
ああ、ようやく学歴差別の本題に入れてきたような気がするが、文章が長くなりすぎたのでここでやめようと思う。やはり駄文のフォローを駄文でしてしまった。

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