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統合失調症の私、いつもの低山に登り、初めてステーキを焼く

今日はいつもの低山に登りステーキを焼いて食べた。これは前回、ウインナーを炒めた記事を書いたときに、「次はステーキだ」と決めていた。
昨日の夜にスーパーで肉を買った。家に持ち帰り、筋切りして叩いてラップにくるんで凍らせておいた。それを本日、保冷剤を入れた保冷バッグに入れて、ザックに詰め込んだ。午前十時半、車に乗って出発だ。途中コンビニでおにぎりをふたつ買った。いつもの山は登るのに一時間かかる。その登山口まで車で行くのに十五分。その間に肉がどれだけ解けるかが問題だった。今日は暑い日だったので、日差しにザックが温められ、肉が傷まないか心配だった。

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今日は、朝七時半に目が覚めた。出発まですることがないので、昨日思いついた、統合失調症に関する短編小説を書こうと思った。弟から見た、統合失調症の兄の物語だ。その兄というのはもちろん私だ。弟から見た自分というのは考えたことがなかった。これは自分を見つめるというのにいい方法だと思う。父から見た自分、母から見た自分、友達の誰それから見た自分、教師から見た自分、いろいろ試してみると、いろいろな自分が発見できそうだ。

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とにかく私は十時頃まで弟から見た自分の小説にのめり込んで時間を忘れていた。小説は夜でも書けるが、登山は昼間しかできない。しかも、今日はステーキを焼くのだ。ヒレ肉をせっかく買ったのだ、無駄にはしたくない。私は小説がほぼ完成すると時間を見て、山へと出発した。

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今日は蒸し暑かった。湿度が高く、日差しも強い今日のような日はそうでない日と比べて、体力の消耗が激しい気がした。私は登山するとき、十五分歩いて一分小休止というやり方で登っているが、今日は山頂近くなると、十五分待てず、十分で小休止してしまった。熱中症で倒れたらシャレにならんぞ、と思ったからだ。しかし、十五分ルールを破ったのはその一回だけだった。結局、登り一時間で山頂に着いた。この前、ウインナーを炒めた場所と同じところに座った。山の東側を見渡せるベンチで机がある。いよいよ、私はステーキを焼く準備に取り掛かった。この前ウインナーを焼いて分かったことは、この登山用のクッカーという鍋あるいはフライパンは厚みがなく熱をすぐに伝えてしまう。そのためすぐに肉を焦がしてしまう可能性があるため、私はオリーブオイルを引いて、火にかける前に保冷バッグから肉を取り出しフライパンに載せた。肉はまだ凍っていた。私はフライパンを火にかけた。

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油がすぐに蒸発してしまい焦げそうだったので、あとからオリーブオイルを追加した。帰ってから書くnoteのために写真を撮るのも忘れなかった。

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油がはねるのを見ながら私は呑気におにぎりを食べた。

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肉が焼けたら火から下ろし、そのままフライパンを皿にしてナイフとフォークを使って切った。見事なミディアムレアだった。振った塩コショウも絶妙だった。山の上でステーキを焼いて食べるというのは生まれて初めての体験であるため、確かに美味いのだが、美味い以上になにか達成感のようなものを感じた。私は食べ終わると満足して下山の準備をした。山の上でウインナーを炒めて食べた、ステーキも焼いて食べた、次は何にしよう、ハンバーグでもしようか、などと考えて私は山を降り始めた。

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降りながら、今日は芥川賞直木賞の発表のある日だと考えた。芥川賞候補作を全部読み、予想を立てようかと思ったが、図書館になかったためひとつしか読めなかった。私は芥川賞が決まるとたいがい、文芸春秋を買って読む。選評も読む。しかし、いつも芥川賞の基準というか文学性がわからない。私には純文学の才能がないのだろう。私はエンターテインメントに興味があるから、私が将来受賞するとしたら直木賞かしらん、などと考えた。しかし、私はいつも直木賞がつまらないと思う。ときどき面白いのがある。でも何か腑に落ちない。芥川賞の存在理由はわかる。文学性が高く価値があるけれども大衆には理解されないため、広く読まれずに埋もれてしまう作家を引き上げる目的があると思う。しかし、それは作品がつまらない、ということを認めていることにもなる。直木賞はどうか。面白い作品は放っておいても読まれるのだからなにも権威づけて表彰する理由はないと思う。私はベストセラーナンバーワンを書きたくて、つまり面白くて深い物、いつまでも人の心に残るものを書きたい。そういえばこのnoteも統合失調症からの心のリハビリについて統合失調症当事者のソーシャルワーカーとして書き始めたのだが、最近は今回の記事のように、アウトドアを勧める記事に移行した。それは私の中に人を楽しませたいという気持ちがあるからだと思う。統合失調症を語るとき、私たちはつい、精神科はこんな所だよ、とか、こんなつらい症状があるよ、という方向を語りがちだが、私はそういう記事を書くことに飽きて来たのかもしれない。家の中で引きこもって苦しい死にたいとかいう気持ちを書くよりも、山に登ってステーキを焼きましたという記事のほうが読んで元気になると思う。私は大学が哲学科だったせいか、哲学的なことを書くことがしばしばある。しかし、あまり成功はしない。先にも述べたように純文学や哲学などは向いていないのだろう。ソーシャルワ―クというのは精神障害者福祉の場合、精神障害者をノーマルな生活ができるようにサポートするのが目的だと思う。私はソーシャルワーカーとして働いていない。このnoteでSWを名乗っている以上福祉的なことをしたいと思うが、サークルを作ったりしようかと思っていたがどうも踏み切れない。ただ、文章は書ける。ご存じのように私は小説家になりたい。小説家になれなかったら何者でもない、というのも怖いので社会福祉士の資格を取った。それでも第一志望は小説家で、第二志望がソーシャルワーカーだ。しかし、第二志望の分際で困っている人から相談を受けるというのも申し訳ないから、文筆活動程度で良しとしようと思っている。私の文章を読んで元気になったり、希望が持てるようになってくれたらそれで十分以上の価値があると思う。
このように堅いことを書くとつまらなく思う方もいると思う。だいたい、俗世間から解放されたくて山に登っているはずが、山を歩いている最中に芥川賞だの直木賞だの世俗的なことを考える私はアホだ。アホにはアホにしか書けないことがあることを自覚できないところが尚アホだ。今回の記事の場合、山の上でステーキを食べることの楽しさが伝わればそれで十分なのだ。いや、本当に美味かったよ。次は何を食べよう。

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