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(試論)「将来の夢を持ちなさい」は迷惑だ

私は子供の頃、すべてに満ち足りていて、幸せそのものだった。
幼児期から大人たちは、「将来の夢は何ですか?」と質問してきた。私は幼児期はなんと答えていたか覚えていないが、小学三年生でソフトボールを始めてからは、「将来はプロ野球選手になりたい」と答えるようになった。
幼児期の将来の夢など、実は将来の目標とかではなくて、ただの変身願望に過ぎない。女の子では、「お花屋さんになりたい」と「お嫁さんになりたい」が同列で将来の夢として聞かれる。お花屋さんは職業で、お嫁さんは結婚であり、両方同時に叶えることができるとは、幼児は考えない。
しかし、この「将来の夢は何ですか?」という質問は甚だ迷惑なものではないだろうか?徒に子供に変身願望を強要しているように思える。私は幼児期、べつになりたいものなどなかった。今の自分のままでもべつに不満はなかった。満たされていたからだ。
それが、「将来の夢は何ですか?」「将来の夢を持ちなさい」「ボーイズ・ビー・アンビシャス!」などと言われては幸福な子供の世界に時の流れという大きな穴を開けて、誕生から死までの人生という物語に私たちを閉じ込めてしまう。私たちは生まれたことは覚えていないし、死ぬことも知らない。それが、「あなたはお母さんから生まれたんだよ、将来は必ず死ぬんだよ」と言われて、納得してしまうが、よく考えてみれば、お母さんから生まれた証拠はないし、必ず死ぬというのも絶対に未知である。私たちは生まれないし、死なないかもしれない。ただ、毎日を楽しく過ごしているだけかもしれない。私の幼年期はそうだった。
しかし、高校野球で活躍してプロ野球選手になるというのを、肌で感じたのは、小学校の修学旅行で東京ドームに行ったときだ。その試合のない日、ファースト側ダッグアウトに入った私は、こっそり砂を一粒ポケットに入れた。後で話したら、私のソフトボールのチームメイトで私とキャッチボールのパートナーである男の子も、「砂を持ってきた」と言った。彼は私のように控えめに一粒ではなく、一握りだった。私は家に帰るとその一粒の砂を紙にテープで貼り付け、机に飾った。それを見るたびに、「いつか巨人軍に入ってこの砂を東京ドームに返しに行くんだ」と胸が熱くなった。そういうとき、私は閉じた子供時代の世界ではなく、時の流れを感じた。いつか死ぬという時の流れを。
中学に入ると、別の時の流れを感じるようになった。勉強だ。「将来のために勉強しなさい」というメッセージが大人たちから強く伝わってきた。私は勉強をしているときは、野球同様時の流れの中に身を置いているような気がした。私はとりあえず高校に行くために受験勉強をがんばった。しかし、高校入学が決まり、「やったー、解放されたー、これで遊べるぞー」と思った矢先に高校から数学の宿題が出た。私は水中深く潜って苦しくなりようやく水面に顔を出して空気を思いっきり吸おうと思ったら、水をかぶせられたような気がした。高校入学したと思ったら大学受験が待っていたのだ。もう、こんな人生は嫌だと思った。野球も中学時代挫折していた。しかし、将来の夢は見なければならず、私はマンガ家になりたいと思っていた。マンガ家になるために勉強した。マンガ家になるために文系を選び、大学は文学部に入った。四年間マンガ家になるために本を読んだ。絵を描いた。マンガを描いた。しかし、どこの出版社に持って行っても、「絵が下手すぎる」と言われ、絶望した。私はすでに高校生の頃から、精神を病んでいた。出口のない時の流れ、死という出口しか思い浮かばない閉じた世界。それが統合失調症という精神の病の世界だった。私は誕生から死までの時の流れの中でしかものを考えることができず、死後に朽ちることのない名声を残すのが人生の目的と考えるようになった。だから、小説家を目指すようになった。まだ、夢を追いかけていた。幼い頃言われた。「将来に夢を持ちなさい」これを忠実に守り続けて今に至る。将来の先の先まで考えるならば、死後に偉大な名声を残すことしか答えは出ない。
自由競争社会は、幸福な社会ではない。誰にでも金持ちになれるチャンスがある、というのは下剋上の世界だ。戦国時代だ。不安定な世界だ。江戸時代のように天下太平で、百姓は百姓のまま一生を過ごすと決定されていたならば、百姓はどんなに幸せだったか。江戸時代の百姓の子が、「将来の夢は何ですか?」と訊かれることはなかったろう。だって、百姓は一生百姓だから。金持ちになると幸せになるのか?それは違う。毎日、よい家族やよい友達と楽しく暮らす。そんな毎日が一生続けば最高じゃないか。そこに、金持ちになりなさい、と資本主義の命令が来たら、幸福な生活はぶち壊しだ。楽しく過ごしていてそれが一生続けばいいと思っていた子供に、「君は最高の暮らしをしているわけじゃないんだよ。世の中にはもっといい暮らしをしている人がいるんだよ。だから、勉強して出世しなさい」と言うのはその子を不幸にするだけじゃないか?不幸とは誕生から死という時の流れを意識させる不安定な精神生活をすることだ。塾で勉強している子供が幸福に見えるか?将来の幸福のために生きるのであれば、将来は必ず死ぬのであり、今を将来の犠牲にする生き方は、単に現世を犠牲にし、来世の幸せを願う生き方と同じである。極楽浄土とは常に遠くにある。今、この今を極楽浄土にしたいと思うならば、時の流れに身を置かないことだ。将来の夢のために今を犠牲にしないことだ。
ああ、私は最高の今を生きられるならば、他に何もいらない。

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