統合失調症でも人生をあきらめず自慢できることをしなさい
俺は最近、富山県にある剣岳という、日本百名山で最難関と言われる山に登って来た。そのことを自慢したくてたまらない。
俺は統合失調症を病んでいるのであるが、この病は快楽を十全に感じ取ることができない病だと思っている。つまり、目の前にすごく美しい景色があっても、雑念、煩悩、幻覚などで邪魔されて、十全にその景色を堪能できない病だと思っている。それでも今回の剣岳は、山頂からの景色は霧で見えなかったが、別山乗越というところから見た朝陽に当たる剣岳は最高だった。統合失調症のため、感受性が落ちていても、その美しさはそれ以上に迫ってきた。やはり、素晴らしい体験とは、不十分でもやらないよりやった方が良い。
で、表題についてであるが、統合失調症だと、症状が重いときは、存在しているだけで辛い、消えたいなどと思うものだと思う。私も思った。しかし、そんなとき、その辛さを上回る幻想を持つと良いと思う。世の中にはいろんな価値観がある。私の場合、大学を休学して精神科に通院していたとき、何もしないのは良くないと思い、油彩画をやった。弟が美術系の高校に通っていたので、弟に油彩画を教えてもらい、道具を揃え描き始めた。メチャクチャな抽象画である。(そのときの代表作をこのnoteのアイコンに使っている)。そのとき自分は世界的な画家であると妄想していた。精神を病んだ画家、ゴッホなどを意識した。彼は生きている間に売れた絵は一枚だけだったらしいが、自殺すれば売れるだろうと自殺したという。私は「死んでたまるか」と思った。世界的な画家になるんだ、と本気で思っていた。ゴッホは画家として偉大だが、精神障害者である。だが、一般の凡人ではない。世界的な画家なのだ。それが私の言いたい統合失調症になったら健康不健康とは関係ない別の尺度で凄いことをして自慢しなさい、ということだ。できれば、本当に凄いことをして、それができたのは世界に自分しかいないような人物になって、例えば、「私はジョンレノンです」とか「私は宮崎駿です」とか言うのと同じレベルになれたらいいと思う(私はこのふたりに憧れている)。まあ、上記の私のように、「俺は剣岳に登ってきたんだぜ」という自慢を持って、しばらく生きるのもいいし、「俺は統合失調症だけど東大生なんだぜ」というのでもいい。これが、十年後も「俺は剣岳に登ったんだぜ」とか「俺は東大を出てるんだぜ」と自慢しているようではダメだ。常に前を向いて生きていかなければならない。なにか、成し遂げたとき、その勝利に酔いしれたいのは当然だがそれもあまり長すぎるのはよくない。私は現在剣岳登頂で酔っているのである。東大に受かった瞬間は嬉しいだろう。『となりのトトロ』を完成させたときの達成感はこの上ないだろう。だが、剣岳も東大も多くの人が経験しているものであるし、過去のものである。『となりのトトロ』も宮崎駿にとって過去の作品で、それは自信作であっても、それに現在、酔ってはいないはずだ。宮崎駿は実際、すぐに次作、『魔女の宅急便』を作っている。
統合失調症になったら、心の健康とは関係ない尺度の価値あることをすべきだと思う。有名になるとか金持ちになるとかじゃなくても、自慢できることはたくさんあるはずだ。
統合失調症は不幸な病だと思う。というか統合失調症が不幸であって、健康な生活が幸福なのだとも思う。しかし、不幸でも価値ある不幸というのもあるはずだ。それが自慢できることをしなさいという理由だ。いや、自慢できることがあるというのはひとつの幸福かもしれない。私は仏教の悟りの境地みたいのが最上の幸福で、統合失調症のように存在しているだけで辛く消えたいという状況が最悪の不幸だと思っているが、そんな最悪も見方によっては価値があるのである。もし現在、あなたが最悪な状況にあったとしても、将来自慢できることをできるように準備するといいと思う。そのとき、誇大妄想でもいいから、自分を肯定することを忘れないで欲しいと思う。
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