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Re: 【小説】嗤ってBABY黄色い煙草の鳩は飛ばず

 写真のデータを確認していると妙な事に気づいた。
 一見すると何の変哲もない集合写真だが、生徒たちが全員同じ表情をしている。
 現場にいた時は全員が両手でピースをしている様に見えた。
 どんなに時代が移ろっても、変化しないものだってあるのだ、といつも微笑ましい気分になる。
 しかし今こうして画像データを確認してみると、少し違っていたのだ。

 どのクラスの生徒も同じように両手でピースをしながら、奇妙な表情を作っている写真が一枚だけあった。
 生徒たちの間で流行なのだろうか。
 ……いや、担任の先生も同じようにしている。生徒に合わせているのかも知れない。


 煙草に火をつけて少し考えた後、卒アル担当の教員に複数のデータを添付して
「生徒たちの意見を尊重したいが、真顔と奇妙な表情とどちらが良いか」
 と言う旨のメールを送る。
 根本まで吸った煙草を灰皿に押し当てて、椅子にかけてあったジャージを羽織り外に出た時に春の終わりを感じた。
 もうすぐ夏を告げる雨が振る。
 それからウンザリするほど長い夏がきて……頭を振って考えるのをやめた。
 死ぬまでにあと何回の季節を越えられるのか、自分には大して意味がない。

 春と言うにはかなり暑い。
 半袖姿もチラチラ見える。
 日が沈んでから出れば良かったか?いや、あの時間帯の混雑み考えるとウンザリする。
 ほどよく空調の効いたスーパーでカゴに必要なものを詰めてレジに並んでいると、自分の前に並んだ幼い少女が米袋を抱えているのが目に入った。
 まるで小さな弟か妹を抱っこするかのように幾度となく抱え直す仕草に可愛らしさを覚える。
 もしも自分が結婚して子どもでもいたら、きっと幸福だろう。
 厭なことも悲しいことも、こういう小さな幸福で全てひっくり返ってしまうんだろう。

 それを写真に収めて額縁にいれてかざる。
 そんなことを考えていると、目の前に立つ少女の表情をどうやって切り撮ろうか考えている自分に気がついた。
 危ない。
 ぢっと見ているだけで通報されかねない。
 仮にスーツを着て名刺を持っていたって、フリーの写真屋なんてのは怪しまれる。たとえ会社に所属していても、よほどのメーカー大手じゃなければ……そこまで考えると自分の人生に対してウンザリした気持ちになった。
 別に後悔は無いが。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。
 件の写真について担当の教師から打ち返しかと思ったが、単なる迷惑メールだった。
「いまならあの表情を一発で綺麗に決める講習会」
 と言うタイトルで、中身は読まずに削除してスマホをポケットに戻した。
 米袋を抱えた少女がレジを通しているタイミングで、何となしに店員とのやり取りを見ていた。
 母親らしきひとは見えないし、ひとりでお使いに来たのかと思うと、都内の子どもは利便性が高い故にそんな苦労があるのだなと思う。
 車で買い物に出る地域ではあり得ないことだ。
 
 ぼんやり見ていると、少女は両手でピースをして妙な表情を作っていた。
 背筋に冷たいものが走り、目が覚める思いをした。
 少女のそれは先ほどの集合写真で見たような表情だった。
 ……流行り、なのだろうか?
 自分だけが取り残されているような焦燥感に、陰嚢の裏がむず痒くなる思いをしながらポーズをやめて素の可愛らしい佇まいに直る少女を見ていた。
 店員はレジパネルを操作して何パーセントかの割引を少女に伝えた。

 ついにそれが何なのか分からず仕舞いだった。
 店員はレジを済ませた少女を見送り、自分の番になった。
 おれを呼んだ店員は無表情で籠の中の商品バーコードをスキャンしていった。
 そして総額を伝える瞬間にこちらを見たが、おれはそのまま何もせずに支払いは終った。
 さっきの少女のは何だったのだろう。
 単なる偶然だろうか。

 ふと気になって辺りを見回すと、どのレジでも客が相貌を崩して笑いながら両手でピースをしている。
 笑っていると言うよりは引き攣った顔をしていた。
 両手のピースを顔に当て、両目は上に向いてほぼ白目になっており、緩み切った口元からはうっすらと唾液が流れ出そうになっている。
 どういう事か、自分が知らないだけか。
 世間では当たり前の流行なのだろうか。
 テレビやネットのニュースをろくに見ない生活と言うのも考え物だなと思ったが、自分は店員に何も言われなかった。
 少女は割り引きされていたので、もしかしたら何か損をしているのかも知れない。


 店員から渡された会計済みのカゴを受け取り、買い物袋に詰め込んでいく。
 やはり他のレジでは自分以外の全員が両手でピースを作り、ほぼ白目で笑う奇妙な表情で会計をしていた。
 首をかしげながら外に出ようとすると、男の店員が近づいてきて腕を掴まれた。
「お客さん、困りますよ」
「え?」
 思いがけず強く掴まれた腕に驚いた。
 少女を見ていたのを誰かに通報されたのだろうか?
 名刺は家だし、困ったことになった。
 どう弁明するか考えていると、店員は
「まだ済ませていませんよね」
 おれの目を見てそう言った。


「は?会計は全部……」
 ポケットの中のレシートを見せようとすると店員は首を横に振った。
「いえ、そちらの事ではありません」
 店員はおれの腕を放すと、両手でピースを作って相貌を崩した。
 それはあの表情だった。
 生徒たちが、少女が、スーパーの客たちがしていたあの顔だった。

 そして男の店員はそのままの表情で「これですよ」と言う。
 おれはあっけに取られていたが、表情を戻した店員が再び腕を掴もうとしたので慌てて店を飛び出した。
「逃げたぞ」
 背後からその店員が叫ぶ。

 買い物袋を持ったまま走り、気付けば知らない住宅街にいた。
 太陽が沈みかけている。
 気温が下がってきていた。
 春の終わりとは言え、朝晩は冷える。
「ここはどこだ?」
 誰も答えないひとりごと。
 いつもの癖だ。
「自宅になんか帰れるかよ」
 もし一連の騒ぎを近所の人たちに見られていたら面倒な事になる。

 追手は一応撒いたらしいが、ここがどこだかわからない。
 いくつか先の通りをパトカーが追尾灯を点けてゆっくりと横切るのが見える。
「まさかを追っているのか?」
 冗談じゃない。
 だが万が一を考えて、脇道に入ると見知らぬアパートの裏側に隠れた。

 寒い。
 ジャージで出た事を後悔し始めているが、まさかこんなことになると誰が思っただろう?
 それにしても、果たしてどうやって家に戻ったものか。
 そもそも何が問題だったのか。
 あの表情を作らないと言う事が何かスーパーの会計として不都合だったのか。
 警察に追われるような事なのか。
 何か法律が変わって義務にでもなったのだろうか。
「そんなはずはない」
 頭を振る。
 何もわからない。
 これならまだ少女を見つめている不審者として扱われる方がマシだ。

 春の夕暮れは思ったより短い。
 辺りが一気に暗くなり、パトカーの追尾灯と交番勤務の警察官たちが持つ懐中電灯が揺れて、生垣や家々などの外壁を照らしているのが見える。
 おれはジャージに首元に顔をうずめた。
「煙草が吸いたい」
 小さい呟き声が漏れて、慌てて口を押さえた。
 早く家に帰りたい。
 ひゅるる、と冷たい風が吹く。
 ついに耐えきれずにくしゃみをしてしまった。
「いたぞ」「こっちだ」
 叫ぶ警察官たちの持つ懐中電灯に照らされる。

 思わず両手を上げてしまったが、これではまるで重犯罪者だ。
 警察官たちは拳銃を構えたままゆっくりと近づいて、そのままおれの挙げた両手に手錠をかけた。
 冷たい金属の感触が厭だった。
 重いんだな、と場違いな感想を持った。

「いるんですよ、最近」
 パトカーの中で隣に座った警察官がいった。
「まぁ思想は自由なんですけどね、困るのはおたくみたいな人だけなんで」
 どうでも良いと言う風に言ったあと、その警察官は両手でピースを作り白目で笑うと「これがそんなに厭ですかね」
 と言った。
 訳も無いだろう、と言うトーンだった。
「あの」
 訊きたいことは山ほどあった。
 しかし
「ん」
 警察官は面倒くさそうに相槌を打った。
「何ですか、それ」
 おれは両手でピースを作ったが、表情を崩せなかった。
 警察官は鼻を鳴らして嗤うて
「……みんなそういうんですよ。話は署で聞きますから」
 そう言って、もうおれには興味が無いと言った風に窓の外を眺めていた。
 おれも話し相手を失って窓の外に目をやった。
 パトカーを見送る誰もがこちらに向かって両手でピースを作り、涎を垂らしながら白目で笑っていた。

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