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Re: 【短編小説】笑い缶

 笑い声が聞こえて目を覚ましたのか、目を覚ました時に笑い声が聞こえたのか。
 とにかく、学生っぽい奴らの笑い声が聞こえた。箸が転げても可笑しい季節だから、奴らが笑うことに何の意味もない。
 コミュニケーションの一環として笑うことで、友好関係を築いて疎外されることを防ぐと言う目的はあるのだろうけど
「いちいちそんなことを考えてるの?」
 咲が訊く。
「おはよう」
 そうだよ、職業病だな。いや、単なる個人の癖かも知れない。何にせよ病気だ。
「そう、なら病院だね」
 そう言って咲が笑った。
 よく笑う女だと、その八重歯を見ながらおれも笑った。

 車が大きく揺れてから停まった。
「おい、着いたぞ」
 ナギの不機嫌そうな声が聞こえた。思い切り引き上げたサイドブレーキの音にもそれがわかる。
「オレの運転でよく眠れたな」
 昨夜はお楽しみか?皮肉っぽく嗤うナギを無視して、足元に転がしていた車止めをタイヤに挟む。ゴムがギュッと泣くような音を立てた。

 あの声を録っておくべきだった。
 夢で笑う咲の声はどんどんと色褪せていく。レコードやテープが擦り切れるより早く、飛ぶ鳥が落ちるように何の予兆も見せず、その影にも手は届かない。

 ナギの後についてアパートに入ると、薄暗い部屋の真ん中には空き缶が山積みになっていた。
「まただよ」
 ナギが空き缶を蹴り飛ばすと、乾いた音が響いた。薄ら寒くなるような音だった。
 恐らくここで死んだ彼はこの缶を開けて開けて開けていくつもの笑い声に囲まれて死んでいったのだろう。
 それは果たして孤独死と言えるのだろうか。
 ……そう思いたいだけかも知れない。
 ここで死んだ彼は未来の自分かも知れない。おれは咲の笑い声に囲まれて死にたい。
 パチン。
 ナギが手にはめたゴム手袋の音で呼び戻される。
「やるぞ」
 ナギが部屋中の空き缶をスマッシャーに入れて押し潰してはゴミ袋に放り込む。
 無味乾燥な音だった。
 本当にこの缶に笑い声が詰まっていたのだろうか。
 もう蓋の開けられてしまった缶を覗いてみても当然そこには何もないし、耳に当ててみても笑い声の残滓すら感じられなかった。
 時折りスマッシャーの中でムギュッと潰れた笑い声が聞こえる。何度やっても慣れない、厭な声だ。


「中国産ばっかだな」
 最初はラベルを見ていたナギも、すぐに飽きてスマッシャーに空き缶を飲み込ませるようにして片づけていた。
「安いからね」
 笑い声も短いし、種類も少ない。
 むかしの缶を開けて不愉快なって以降、中国産のものは買った事がない。いまは改善されているのだろうか?
「やっぱり国産だよな、安心できる」
「少し高いけどね」
 国産の笑い缶は声の種類が豊富だし持続時間も長い。
 顔写真付きとかもあるし、一度に複数の笑い声が聞こえる笑い缶もあるが、ここにはそんな高級笑い缶はひとつもなかった。

 潰された笑い缶の入った袋はやたら重く、どうにか軽トラの荷台に載せ終わるとナギが冷たい缶コーヒーを差し出した。
「ん、ご苦労」
 ありがとう、と言ってその缶コーヒーを受け取る。ナギは煙草に火を付けた。
「あの部屋で死んだ人が空けた笑い缶の笑い声って、どこへ行ったんだろうな」
 煙草を吸い込んだナギは、わざとらしい音を立てて細長くケムリを吐き出した。
 意味が分からないから、とりあえず先を続けろと言うことだと解釈した。
「遮光カーテンを閉めたあの部屋に放たれた笑い声は天井や壁に吸収されていったのか、誰とも共有できない笑い缶の仄暗い笑いは彼を孤独から救ったのか」
 笑い缶は必要か。


 笑いと言う感情はひとりで持ち得る感情ではない。
 誰かと共有する事を前提としたコミュニケーションのひとつだ。
 誰かと共有する事で笑いは増幅する。
 アンプリファーを通して増大した笑い。
 笑い缶の声は彼を笑わせる事が出来ただろうか。

 ふーっとケムリを吐ききったナギは、しばらく考えた後で
「わからねぇな」
 と言った後、鼻で笑った。
「何もワカんねぇよ」
 それはおれが言っていることか、それとも笑い缶の必要性の話か分からなかったけれど、今はそれでいいと思っておれも鼻を鳴らして笑った。
 ナギが灰皿にしている笑い缶に吸い殻を入れたとき、近くで誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「気のせいだよ」
 ナギが言った。
 たぶんそうなんだろう。
 

 軽トラの荷台に置かれた空き缶を見ていると、そこに詰まっていた笑い声が一斉に聞こえる錯覚に襲われた。
 幾つもの笑い声はそのほとんどが同じ声で同じように笑い、それが輪唱の様にズレたタイミングで重なり合っている。
「職業病だよ、すぐに慣れる」
 ナギはそう言って運転席に乗り込んだ。
 おれも車止めを外して助手席に座った。
 あまり気持ちの良いものでは無いが、慣れるしかないらしい。
「さっきの話だけどさ」
 ナギが言う。
「中国産の変な笑い声がそれ聞いた奴を救うのだとしたら、否定は出来ないよな」
 ナギも安い笑い缶に囲まれて死んだ奴にシンパシーを感じたのだろうか。

 もしかしたら将来的には自分も彼と同じ様に笑い缶を開けてその笑い声の中に死ぬかも知れない。
 その時には彼の気持ちがわかるだろうか。


 今日は帰りに笑い缶を買おう。
 国産の良い缶と中国産の安いやつを。
 アメリカ産の大きなものでもいいかもな。専門のショップに行けば各国の笑い缶が売っているかも知れない。
 どこか遠くで笑い声が聞こえた。
 あれは笑い缶だろうか、それとも天然の笑い声だろうか。
「あいつの笑い声を録っておくべきだったよ」
 おれがそう言うと、ナギは寂しそうに笑って「そうだな」と呟いた。

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